最悪な1日
- Chocolate Prideの後日談です。
- 書いた日:2009.02.21
俺は光風館の扉を勢いよく閉めると、後手で鍵をかけた。 全力で走ってきたため、息がすっかり上がっている。 俺は崩れるようにその場にへたりこみ、今日何度目かの言葉を口にした。
「……最悪だ……」
そう、今日は起きた時から最悪だった。
俺はいつものように、お隣さんの椎名に叩き起こされた。 元々寝起きのいい方ではないが、今朝の俺は明らかに睡眠不足だった。 昨日起こった事があまりに衝撃的で、なかなか寝付けなかったせいだ。 いつまでも起きない俺に切れた椎名が俺を蹴飛ばし、俺はベッドから落ちたらしい。 後頭部がずきずきする。
「まったく、何やってんのよ! 遅刻しちゃう!」
椎名に袖を引っ張られながら、俺は学園への道を走っていた。 「何やってんの、はこっちのセリフだよ」とは言えない。 何だかんだ言って、椎名がいないと毎日が重役出勤になりかねないのだ。
やがて学園の門が見えてきた。 椎名は俺の袖を離し、ブレザーのポケットから携帯電話を取り出した。 現在の時刻を確認して、表情が緩む。
「よかった、間に合いそう」
「よかったよかった」
俺は気のない相槌を打った。
「なーにが、よかったよかった、よ!」
椎名の手首がひるがえり、そのまま通学カバンが俺の顔面に向かって振り下ろされる。 俺は寸前のところでそれを受け止めた。
「お、おい! 危ないだろ!」
椎名は俺の抗議を無視した。 カバンをスイングした体勢のまま、門の方を見つめている。
「……あれ、なんだろ」
「え?」
俺はカバンを椎名の方に押しやって、その視線の先に目をやった。 見ると、学園の門前ロータリーの一角に、生徒達が大勢集まっている。 その中央に何か紙のようなものを配っている人物がいて、 集まった生徒達は、それを受け取っているようだ。
「……チラシ?」
「どっかの部活の告知ビラかしら。 聞いてないわよ?」
椎名は小首をかしげ、門に向かって歩き出した。 俺もその後に続く。 その時、後頭部がずきりと痛んだ。
「……っ」
俺は痛む箇所に手を当て、椎名に聞こえないようにつぶやいた。
「あーあ、今日は朝から最悪だな……」
だが、こんなことは序章に過ぎなかったのだ。
「ちょっと、何事?」
椎名は人だかりに近づき、手近な生徒をつかまえて声をかけた。
「あ、椎名さん。 おはよう」
「うん、おはよ。 ……で、何なの、この騒ぎ」
椎名に尋ねられた女子生徒は、それに答える前に声を上げた。
「あ、霧谷くんっ!」
その声に、周囲の生徒が一斉に俺を振り返った。
「霧谷!」
「霧谷くん!」
そのまま俺は、生徒達に取り囲まれてしまった。
「ねぇねぇ、どうなの!?」
「これ本当かよ!」
「やっぱりそうなんだ? きゃー!」
「いや、ありえねーだろ!」
みんな、口々に何事かを叫んでいる。 どうも俺に聞きたいことがあるようだが、俺には心当たりなどない。
「ちょ、ちょっと……?」
すっかり混乱した俺の耳に、ひときわ大きな声が聞こえた。
「霧谷っ!」
それが蒼真の声だと気づいた次の瞬間、俺は人の輪から引っ張り出されていた。
今度は蒼真に腕を引っ張られたまま、俺は全力で走るハメになった。 なぜか、昇降口と真逆の方に向かっている。 建物を周って中庭まで出て、ようやく立ち止まった。
「はー……。 ここまで来りゃ、大丈夫か……」
呼吸を整えながら、蒼真が尋ねてきた。
「で、どーする? ……授業、出るか?」
「……それを、決める前に、説明してくれ……っ」
俺も呼吸を整えながら答えた。 いったい、何がどうなっているんだ?
「霧谷……俺も、説明してほしいことがある」
そう言うと、蒼真はズボンのポケットからくしゃくしゃになった紙を取り出し、俺に投げてよこした。 俺はその紙を受け取り、しわになっている部分を伸ばした。 広げてみると、それは新聞部が発行している校内新聞だった。 発行日は今日で、右上に大きな文字で「号外」と書かれている。
だが、そんなことはどうでもよかった。 俺は紙面のおよそ半分を占めた写真に釘付けになった。
「こ、これ……」
「それ、どーゆーこと?」
そこに写っていたのは、俺と西園寺。 場所は、光風館近くの構内道路。 西園寺が俺の顎に手をかけ、覆いかぶさるようにして……。
絶妙なカメラアングルだ。 未遂でした、なんて言っても、とても信じてはもらえないだろう。
「霧谷?」
蒼真の声が遠くに聞こえる。 頭上で始業のチャイムが響いたが、それさえも遠い。
「……最悪だ」
俺は、目の前が真っ暗になっていくのを感じた。
「……なるほど。 大体の事情はわかった」
俺と蒼真は、中庭の一角に腰を下ろして、「対策会議」を開いていた。
「要するに、お前は西園寺のせいでとばっちり食ったってことだな」
「……冷やかさないんだな」
蒼真からすれば、男の友人が、同じく男の友人と、「そういう関係」になったのだ。 もっと根掘り葉掘り聞かれるか、引かれるかのどちらかだと思っていた。 だが、蒼真はいつもと変わらない態度だ。
「お前が誰とどういう関係になろうと、お前が俺の親友なのは変わらねぇよ」
蒼真はいたって真面目な顔で答え、少し間を置いて付け足した。
「ま、西園寺が本気でその気だったっつーのは、ちょっと驚いたけど」
「……あ、そうだ。 西園寺は?」
当の本人はどこにいるんだろう。 あの状況を許したのは俺自身だが、原因を作ったのは西園寺だ。 俺としては、文句のひとつも言ってやらないと気がすまない。
「見てねぇ。 ケータイもダメだ、多分電源切ってやがる」
「そっか……」
――西園寺。 この状況、お前ならどうする?
――いつもの過剰なまでの自信で、簡単に切り抜けてしまうのか?
今この場に西園寺がいないことが、何故かとてももどかしく感じられた。
蒼真の提案で、俺はひとまず光風館に身を寄せることにした。 あそこなら、関係者以外は入ってこられない。 授業はサボり慣れているので、特に気が引けることもなかった。 もちろん、ほめられたことではないが。
「色々ありがとう。 今度何かおごるよ」
「おう、忘れんなよ!」
蒼真がいつもと同じ笑顔で送り出してくれることが、俺にはせめてもの救いだった。 俺は蒼真に別れを告げ、光風館に向かって歩き出した。
さすがに授業中だけあって、学園内の道路に生徒の姿はなかった。 これなら、別に急ぐこともない。 朝から走ってばかりだったので、俺はゆっくりと歩いていくことにした。 その時だった。
「霧谷か?」
後ろから声がかかった。 俺は振り返ると同時に、反射的に身構えた。 だが、そこに立っていたのは生徒ではなく、中年の男性教員だった。
「あ、あれ……」
俺はやや拍子抜けした。
「2年の、霧谷魁斗だな?」
「え、あ、はい」
その教員の顔は見たことがあった。 たしか日本史か世界史の教師で、受け持ちは3年だった気がする。 俺が必死に名前を思い出そうとしていると、相手が近づいてきた。 手には、例の新聞を持っている。
「これはどういうことだ、霧谷」
どういうことだと聞かれても、説明に困る。 一言で表せば、さっき蒼真が言った「とばっちり」なのだろうが、それで相手が納得するとも思えない。
「ええと、それには話せば長い経緯と理由が……」
適当にごまかそうとした時、突然相手の顔色が変わった。
「ふざけるな!」
そう叫んで、さらに俺に詰め寄る。
「健全なる学びの場である学園内において、なんという破廉恥な行いだ!」
「は、破廉恥ですか」
それは……認めなくもない。 だが、そこまで目のすわった表情で断言しなくてもいいんじゃないか。 相手はなおも続けた。
「おまけに男同士だなどと、言語道断だ! 霧谷、貴様は先祖に対して申し訳ないと思わんのか!」
俺は直感した。 こいつは、相手にするとやばい。
「来い! 貴様に日本男児としての精神を叩き込んでくれる!」
相手がその言葉を言い終わる前に、俺は方向転換して走り出した。
「待て、霧谷!」
相手も走って追いかけてくる。 最初は、簡単に振り切れるだろうと思っていた。 だが中年ながら均整のとれた体つきのその教員は、俺の予想よりも足が速かった。
「何なんだよ、もう……っ!」
俺は、再び全力で走るハメになった。
どうにか光風館までたどり着く頃には、教員の姿は見えくなっていた。 俺はカバンから鍵を取り出し、古めかしい扉を開けた。 そのまま転がり込むように中に入り、後手で鍵をかける。 すっかり息があがっていた。 俺は肩で大きく息をしながら、誰に向けるともなくつぶやいた。
「……最悪だ……」
その時、奥で物音が聞こえた。 続いて、木の床を踏む足音。 その音は二階から聞こえてくる。
「だ、誰……?」
勝手に役員待遇にされている俺を除いて、ここに生徒会の役員以外がいることはない。 だが、マスターキーを使える人間なら、入ることは可能だ。 ついさっき暴走した教員に遭遇したばかりだったため、安心しきれなかった。
「……霧谷?」
階段の手すりから身を乗り出したのは、俺の最悪の元凶だった。
「やっぱりな。 ここにいればお前が来ると……」
西園寺は、階段をゆっくりと下りてくる。 だが、途中でそれが早足になった。
「……霧谷? どうした、大丈夫か?」
「西園寺……」
俺は、西園寺に会ったら文句を言ってやろうと思っていた。 お前のせいで、朝から散々な目に遭ったんだ。 責任とって事態を収拾しろ。 そう詰め寄ってやるつもりだった。
だが、実際に本人を前にしたら、何も言えなかった。 むしろ、奇妙な安心感が俺を支配していた。
――よかった。
そう思った瞬間、視界がぐらりと揺れた。
「霧谷……? おい、霧谷っ!」
座ったまま前のめりに倒れそうになった俺を、西園寺が受け止める。
もう、大丈夫だ。 西園寺が、いて、くれる……。
俺は、そのまま意識を手放した。
俺が目を覚ました時、事態はすでに収束していた。 なので、俺は全てが終わった後で、事の顛末を聞かされた。
俺が蒼真に引っ張られていった後、椎名が新聞部部長のいるクラスに怒鳴りこみに行ったらしい。 もちろん、授業中にも関わらず、だ。 そこがたまたま呉羽のクラスで、部長は二人がかりで教室から連行された。 そして、昼には「あの記事は捏造でした」という内容の「謝罪告知」が出された。
実にあっけなく、学園は平穏を取り戻したのだ。
それから一週間たって、もう大っぴらに俺と西園寺の仲を噂する声は聞かれなくなった。 西園寺が「俺のもの」を言わなくなったことも、沈静化の理由のひとつだろう。 俺はまた、気ままな学園生活に戻ることができた。 だが、それとは別の問題が持ち上がっていた。
「もうすぐね、ホワイトデー」
椎名が俺に、にっこりと微笑みかけた。
「楽しみだなぁ」
この一件以来、俺はすっかり椎名に頭が上がらない。 バレンタインにもらった義理チョコに対して、3倍程度のお返しでは張り倒されかねない。 その隣で、呉羽がくすくす笑っている。 呉羽にも、ちゃんとお礼をしないといけない。
それから……。
『ホワイトデーに、返してもらおうか』
その言葉を思い出すたびに、気分が重くなる。 そう告げた時の、西園寺の余裕の表情が思い出されて、俺は追い払うように頭を振った。 一瞬顔が赤くなったのを、二人に見とがめられなかっただろうか。
「はぁ……最悪だよ……」
俺は誰にも聞かれないようにつぶやいた。 そして、もっと小さい声で、一言付け足した。
「……たぶん」
END