最悪な1日

俺は光風館の扉を勢いよく閉めると、後手で鍵をかけた。 全力で走ってきたため、息がすっかり上がっている。 俺は崩れるようにその場にへたりこみ、今日何度目かの言葉を口にした。

「……最悪だ……」

そう、今日は起きた時から最悪だった。

俺はいつものように、お隣さんの椎名に叩き起こされた。 元々寝起きのいい方ではないが、今朝の俺は明らかに睡眠不足だった。 昨日起こった事があまりに衝撃的で、なかなか寝付けなかったせいだ。 いつまでも起きない俺に切れた椎名が俺を蹴飛ばし、俺はベッドから落ちたらしい。 後頭部がずきずきする。

「まったく、何やってんのよ! 遅刻しちゃう!」

椎名に袖を引っ張られながら、俺は学園への道を走っていた。 「何やってんの、はこっちのセリフだよ」とは言えない。 何だかんだ言って、椎名がいないと毎日が重役出勤になりかねないのだ。

やがて学園の門が見えてきた。 椎名は俺の袖を離し、ブレザーのポケットから携帯電話を取り出した。 現在の時刻を確認して、表情が緩む。

「よかった、間に合いそう」

「よかったよかった」

俺は気のない相槌を打った。

「なーにが、よかったよかった、よ!」

椎名の手首がひるがえり、そのまま通学カバンが俺の顔面に向かって振り下ろされる。 俺は寸前のところでそれを受け止めた。

「お、おい! 危ないだろ!」

椎名は俺の抗議を無視した。 カバンをスイングした体勢のまま、門の方を見つめている。

「……あれ、なんだろ」

「え?」

俺はカバンを椎名の方に押しやって、その視線の先に目をやった。 見ると、学園の門前ロータリーの一角に、生徒達が大勢集まっている。 その中央に何か紙のようなものを配っている人物がいて、 集まった生徒達は、それを受け取っているようだ。

「……チラシ?」

「どっかの部活の告知ビラかしら。 聞いてないわよ?」

椎名は小首をかしげ、門に向かって歩き出した。 俺もその後に続く。 その時、後頭部がずきりと痛んだ。

「……っ」

俺は痛む箇所に手を当て、椎名に聞こえないようにつぶやいた。

「あーあ、今日は朝から最悪だな……」

だが、こんなことは序章に過ぎなかったのだ。

「ちょっと、何事?」

椎名は人だかりに近づき、手近な生徒をつかまえて声をかけた。

「あ、椎名さん。 おはよう」

「うん、おはよ。 ……で、何なの、この騒ぎ」

椎名に尋ねられた女子生徒は、それに答える前に声を上げた。

「あ、霧谷くんっ!」

その声に、周囲の生徒が一斉に俺を振り返った。

「霧谷!」

「霧谷くん!」

そのまま俺は、生徒達に取り囲まれてしまった。

「ねぇねぇ、どうなの!?」

「これ本当かよ!」

「やっぱりそうなんだ? きゃー!」

「いや、ありえねーだろ!」

みんな、口々に何事かを叫んでいる。 どうも俺に聞きたいことがあるようだが、俺には心当たりなどない。

「ちょ、ちょっと……?」

すっかり混乱した俺の耳に、ひときわ大きな声が聞こえた。

「霧谷っ!」

それが蒼真の声だと気づいた次の瞬間、俺は人の輪から引っ張り出されていた。

今度は蒼真に腕を引っ張られたまま、俺は全力で走るハメになった。 なぜか、昇降口と真逆の方に向かっている。 建物を周って中庭まで出て、ようやく立ち止まった。

「はー……。 ここまで来りゃ、大丈夫か……」

呼吸を整えながら、蒼真が尋ねてきた。

「で、どーする? ……授業、出るか?」

「……それを、決める前に、説明してくれ……っ」

俺も呼吸を整えながら答えた。 いったい、何がどうなっているんだ?

「霧谷……俺も、説明してほしいことがある」

そう言うと、蒼真はズボンのポケットからくしゃくしゃになった紙を取り出し、俺に投げてよこした。 俺はその紙を受け取り、しわになっている部分を伸ばした。 広げてみると、それは新聞部が発行している校内新聞だった。 発行日は今日で、右上に大きな文字で「号外」と書かれている。

だが、そんなことはどうでもよかった。 俺は紙面のおよそ半分を占めた写真に釘付けになった。

「こ、これ……」

「それ、どーゆーこと?」

そこに写っていたのは、俺と西園寺。 場所は、光風館近くの構内道路。 西園寺が俺の顎に手をかけ、覆いかぶさるようにして……。

絶妙なカメラアングルだ。 未遂でした、なんて言っても、とても信じてはもらえないだろう。

「霧谷?」

蒼真の声が遠くに聞こえる。 頭上で始業のチャイムが響いたが、それさえも遠い。

「……最悪だ」

俺は、目の前が真っ暗になっていくのを感じた。

「……なるほど。 大体の事情はわかった」

俺と蒼真は、中庭の一角に腰を下ろして、「対策会議」を開いていた。

「要するに、お前は西園寺のせいでとばっちり食ったってことだな」

「……冷やかさないんだな」

蒼真からすれば、男の友人が、同じく男の友人と、「そういう関係」になったのだ。 もっと根掘り葉掘り聞かれるか、引かれるかのどちらかだと思っていた。 だが、蒼真はいつもと変わらない態度だ。

「お前が誰とどういう関係になろうと、お前が俺の親友なのは変わらねぇよ」

蒼真はいたって真面目な顔で答え、少し間を置いて付け足した。

「ま、西園寺が本気でその気だったっつーのは、ちょっと驚いたけど」

「……あ、そうだ。 西園寺は?」

当の本人はどこにいるんだろう。 あの状況を許したのは俺自身だが、原因を作ったのは西園寺だ。 俺としては、文句のひとつも言ってやらないと気がすまない。

「見てねぇ。 ケータイもダメだ、多分電源切ってやがる」

「そっか……」

――西園寺。 この状況、お前ならどうする?

――いつもの過剰なまでの自信で、簡単に切り抜けてしまうのか?

今この場に西園寺がいないことが、何故かとてももどかしく感じられた。

蒼真の提案で、俺はひとまず光風館に身を寄せることにした。 あそこなら、関係者以外は入ってこられない。 授業はサボり慣れているので、特に気が引けることもなかった。 もちろん、ほめられたことではないが。

「色々ありがとう。 今度何かおごるよ」

「おう、忘れんなよ!」

蒼真がいつもと同じ笑顔で送り出してくれることが、俺にはせめてもの救いだった。 俺は蒼真に別れを告げ、光風館に向かって歩き出した。

さすがに授業中だけあって、学園内の道路に生徒の姿はなかった。 これなら、別に急ぐこともない。 朝から走ってばかりだったので、俺はゆっくりと歩いていくことにした。 その時だった。

「霧谷か?」

後ろから声がかかった。 俺は振り返ると同時に、反射的に身構えた。 だが、そこに立っていたのは生徒ではなく、中年の男性教員だった。

「あ、あれ……」

俺はやや拍子抜けした。

「2年の、霧谷魁斗だな?」

「え、あ、はい」

その教員の顔は見たことがあった。 たしか日本史か世界史の教師で、受け持ちは3年だった気がする。 俺が必死に名前を思い出そうとしていると、相手が近づいてきた。 手には、例の新聞を持っている。

「これはどういうことだ、霧谷」

どういうことだと聞かれても、説明に困る。 一言で表せば、さっき蒼真が言った「とばっちり」なのだろうが、それで相手が納得するとも思えない。

「ええと、それには話せば長い経緯と理由が……」

適当にごまかそうとした時、突然相手の顔色が変わった。

「ふざけるな!」

そう叫んで、さらに俺に詰め寄る。

「健全なる学びの場である学園内において、なんという破廉恥な行いだ!」

「は、破廉恥ですか」

それは……認めなくもない。 だが、そこまで目のすわった表情で断言しなくてもいいんじゃないか。 相手はなおも続けた。

「おまけに男同士だなどと、言語道断だ! 霧谷、貴様は先祖に対して申し訳ないと思わんのか!」

俺は直感した。 こいつは、相手にするとやばい。

「来い! 貴様に日本男児としての精神を叩き込んでくれる!」

相手がその言葉を言い終わる前に、俺は方向転換して走り出した。

「待て、霧谷!」

相手も走って追いかけてくる。 最初は、簡単に振り切れるだろうと思っていた。 だが中年ながら均整のとれた体つきのその教員は、俺の予想よりも足が速かった。

「何なんだよ、もう……っ!」

俺は、再び全力で走るハメになった。

どうにか光風館までたどり着く頃には、教員の姿は見えくなっていた。 俺はカバンから鍵を取り出し、古めかしい扉を開けた。 そのまま転がり込むように中に入り、後手で鍵をかける。 すっかり息があがっていた。 俺は肩で大きく息をしながら、誰に向けるともなくつぶやいた。

「……最悪だ……」

その時、奥で物音が聞こえた。 続いて、木の床を踏む足音。 その音は二階から聞こえてくる。

「だ、誰……?」

勝手に役員待遇にされている俺を除いて、ここに生徒会の役員以外がいることはない。 だが、マスターキーを使える人間なら、入ることは可能だ。 ついさっき暴走した教員に遭遇したばかりだったため、安心しきれなかった。

「……霧谷?」

階段の手すりから身を乗り出したのは、俺の最悪の元凶だった。

「やっぱりな。 ここにいればお前が来ると……」

西園寺は、階段をゆっくりと下りてくる。 だが、途中でそれが早足になった。

「……霧谷? どうした、大丈夫か?」

「西園寺……」

俺は、西園寺に会ったら文句を言ってやろうと思っていた。 お前のせいで、朝から散々な目に遭ったんだ。 責任とって事態を収拾しろ。 そう詰め寄ってやるつもりだった。

だが、実際に本人を前にしたら、何も言えなかった。 むしろ、奇妙な安心感が俺を支配していた。

――よかった。

そう思った瞬間、視界がぐらりと揺れた。

「霧谷……? おい、霧谷っ!」

座ったまま前のめりに倒れそうになった俺を、西園寺が受け止める。

もう、大丈夫だ。 西園寺が、いて、くれる……。

俺は、そのまま意識を手放した。

俺が目を覚ました時、事態はすでに収束していた。 なので、俺は全てが終わった後で、事の顛末を聞かされた。

俺が蒼真に引っ張られていった後、椎名が新聞部部長のいるクラスに怒鳴りこみに行ったらしい。 もちろん、授業中にも関わらず、だ。 そこがたまたま呉羽のクラスで、部長は二人がかりで教室から連行された。 そして、昼には「あの記事は捏造でした」という内容の「謝罪告知」が出された。

実にあっけなく、学園は平穏を取り戻したのだ。

それから一週間たって、もう大っぴらに俺と西園寺の仲を噂する声は聞かれなくなった。 西園寺が「俺のもの」を言わなくなったことも、沈静化の理由のひとつだろう。 俺はまた、気ままな学園生活に戻ることができた。 だが、それとは別の問題が持ち上がっていた。

「もうすぐね、ホワイトデー」

椎名が俺に、にっこりと微笑みかけた。

「楽しみだなぁ」

この一件以来、俺はすっかり椎名に頭が上がらない。 バレンタインにもらった義理チョコに対して、3倍程度のお返しでは張り倒されかねない。 その隣で、呉羽がくすくす笑っている。 呉羽にも、ちゃんとお礼をしないといけない。

それから……。

『ホワイトデーに、返してもらおうか』

その言葉を思い出すたびに、気分が重くなる。 そう告げた時の、西園寺の余裕の表情が思い出されて、俺は追い払うように頭を振った。 一瞬顔が赤くなったのを、二人に見とがめられなかっただろうか。

「はぁ……最悪だよ……」

俺は誰にも聞かれないようにつぶやいた。 そして、もっと小さい声で、一言付け足した。

「……たぶん」

END