Chocolate Pride

俺はその日、放課後の図書室で参考書片手に宿題を解いていた。 宿題なので、もちろん家に持ち帰ってもいい。 だが、いざとなったら手近な誰かに聞けるという安心感から、学校で終わらせてしまうことが多かった。

その日の数学の宿題は、結構な難問だった。 かなりの時間考えてはみたが、答えを見つける糸口もつかめない。 誰かに聞くしかないかな……。

「うーん……っ」

俺は参考書から顔をあげ、大きく伸びをした。 その体勢のまま、頭の後ろで腕を組んで目を閉じた。 誰かといっても心当たりは限られている。 その心当たりを一人ずつ思い浮かべていき、やがてある人物のところで止まった。

「いや、こいつに聞くのはやめとこう……」

俺がつぶやいた時だった。

突然、俺の上から声が降ってきた。

「誰に何を聞くんだ?」

「うわっ!?」

俺は驚いて椅子から落ちそうになった。 寸前のところで机の縁に手をかけ、体勢を整える。 振り返ると、本を手に持った西園寺が立っていた。

「……おどかすなよ」

俺が驚いたのは、突然声をかけられたからだけではなかった。 ちょうどその時思い浮かべていた「心当たり」、その本人の声が聞こえてきたからだ。

相手は俺の抗議を無視して、机の上に広げられた参考書とノートに目をやった。 ノートに途中まで書かれた計算式と、その周囲に散乱している消しゴムのカスを見て、納得したようにつぶやく。

「なるほど、宿題か」

今度は俺の方に向き直り、質問を投げかけてきた。

「分からないなら、何故俺に聞きに来ない?」

「お前に聞きに行くのはやめとこう、って思ってたとこだよ」

俺はちらりと周囲をうかがった。 視界の端に、書架に手を伸ばしかけたまま、こちらを見つめている女子生徒が映った。 近くの席でレポート作成をしていた数人の生徒も、何事かとこちらを気にしている。

「では、誰に聞きに行くつもりだったんだ?」

俺は音量を抑えつつ、強めの口調で返した。

「誰だろうと、お前には関係ないだろ」

「関係あるな。 お前は俺のものなんだから、俺に聞きに来い」

西園寺は、きっぱりと言い放った。

『お前は、俺のものだ』

西園寺は以前からそんなようなことを言っていたが、最近はさらにひどくなっている。 今までは1ヶ月に1、2回程度だったのが、1日に3回は聞いている気がする。 だが、頻度だけならまだいい。 俺を悩ませているのは、それを言うタイミングだ。

気心の知れた友人たちの前だけでなく、こういう不特定多数の集まる場所でも、平然と言ってのける。 おかげで、学園中に変な噂が広まってしまった。 俺が一人で廊下を歩いているだけで、こちらを見ながらヒソヒソ話をされる始末だ。

蒼真に言わせれば、「前からそういう噂をしている奴はいた」とのことだった。 だが、ここまで広がったのは、どう考えても最近の西園寺の行動のせいだ。 なまじ西園寺が目立つ存在なせいで、その伝播スピードは恐ろしい。

「……だから聞きに行きたくないんだよ」

俺はこれ見よがしに、大きくため息をついた。 もう一度周囲を見回すと、女子生徒は口元に手を当てた体勢で硬直していた。 近くの席の生徒達は、こちらを見ながら楽しげに囁きあっている。

「そういう殺し文句は、俺じゃなくて、女の子に言ってやれよ」

俺じゃなくて、の部分を強調する。 西園寺はその部分には触れず、窓の外に視線を移した。 窓の外には、大きく張り出した木の枝。 そしてその向こう側に、冬らしいうす曇りの空が広がっている。 俺は空を見つめたまま付け足した。

「少なくとも、お前のことが好きだって子は、たくさんいるだろ」

「そうか? よく分からん」

「バレンタインであれだけチョコもらってたくせに、よく言うよ……」

今から2週間前、2月14日。 全国の女の子達の一世一代のイベントは、ここ聖ルミナス学園でも例外なく開催された。 蒼真はいつものように各クラスを回っては、チョコレートを受け取っていた。 そして、大きな紙袋に入りきらないほどの量を抱えて光風館に戻ってきた。

「いやー、こんなに食べたら鼻血が止まんねぇなー」

満面の笑みを浮かべる蒼真に、呉羽がにっこりと微笑みかけた。

「そっか。 じゃあ、私からのチョコはいらないね」

「な、呉羽、俺に……っ!? いる、いるに決まってるだろっ!!」

蒼真は抱えていた紙袋を近くにいた俺に押し付け、かみつかんばかりの勢いで叫んだ。

「ふふ、蒼真くんだけじゃないよ。 霧谷くん、会長……ちゃんと3人分用意したから」

「……あ、そう……。 3人分、ね……」

蒼真はがっくりと肩を落とした。

ふと、呉羽が俺に視線を向けた。

「霧谷くん」

そして、遠慮がちに尋ねてきた。

「……霧谷くんは、チョコ、どれくらいもらったの?」

俺は、脇に置いた自分のカバンに目をやった。 蒼真と違って、俺がもらったのはこの中に入りきってしまうくらいの量だ。 おまけに……。

「義理が3個。 ……あと、カミソリ」

「何? カミソリ?」

さっきまでしょげていた蒼真が顔を上げる。

「そりゃまた、古風な嫌がらせだな。 決闘状とかは無いのか?」

「大丈夫? 怪我とか、してない?」

一人は楽しそうに、もう一人は心配そうに俺に詰め寄る。

「ちょ、ちょっと……」

その時、蒼真と呉羽の向こう側に、何かを抱えて入ってくる人物が見えた。 抱えている何かでほとんど隠れていたため、俺は辛うじて見えたブレザーの色で、西園寺だと判断した。

「あ、西園……って……」

その姿を見て、俺は言葉を失った。 西園寺が両手で抱えていたのは、引越しに使うような大型のダンボールだった。 上側の蓋はされておらず、色鮮やかな包装紙やリボンが今にもこぼれ落ちそうだ。 そのダンボールの上に、さらに花束が2つくらい載っている。 俺が絶句しているのに気付き、蒼真も振り返る。

「……おい、春人ちゃん? それ、何の冗談?」

西園寺は顔にかかりそうになっている花を、鬱陶しそうに首をふって払いのけた。

「冗談に見えるか? ……手伝え」

「お前は……」

ふいに西園寺が話しかけてきて、俺の回想はそこで止まった。 俺は視線を2月の空から、西園寺に移した。

「くれなかったな、チョコ」

「はぁ!?」

俺は思わず、すっとんきょうな大声をあげてしまった。 周囲の視線が、一斉にこちらに集まる。

「あ……」

反射的に手で口をふさごうとしたが、それより先に西園寺が動いた。 人差し指を立て、すっと俺の顔の前に掲げた。 そして、そのまま指を俺の唇に押し付けた。

「図書室では、静かに」

「〜〜〜!!」

俺は声に出さずに叫んだ。

数分後、俺は光風館へと続く構内道路を歩いていた。 宿題を快く教えてくれそうな蛭田を頼ってのことだったが、一般生徒のいない場所に行きたかったというのが本音だった。 早足で歩く俺の数歩後ろを、西園寺がついてくるのが分かる。 参考書一式を乱暴にカバンにつっこんで、逃げるように図書室を後にしてきたが、 これからのことを考えると気が重かった。

俺は歩みを止めずに、西園寺に話しかけた。

「……ああいうこと言うの、やめろって言ってるだろ」

「ああいうこと? ……ああ、『俺のもの』か?」

「そうだよ」

俺はひと呼吸おいて切り出した。

「……噂になってるぞ。 俺達が『そういう関係』だ、って」

「知ってる」

基本的に、西園寺は他人の噂や風評など気にしない。 俺との噂も、取るに足らないこととして受け流しているのだろう。 西園寺はそれでいいかもしれないが、俺は居心地が悪い。

「……知ってるなら、からかうのはやめてくれよ」

「からかってなどいない。 それに……」

西園寺は、そこで歩みを止めた。 つられて俺も立ち止まり、後ろを振り返った。

「それに?」

西園寺は顎に手を当て、微笑を浮かべた。 そうした気取ったポーズを取るのは、彼のクセだった。

「お前が俺のものだという事実は変わらない。 そうだろう?」

……どこまでも堂々とした殺し文句だ。 俺が恋にときめく女の子なら、確実に落ちていただろう。 だが、あいにくと俺は男だった。 こいつはいつも、恥ずかしい台詞を臆面もなく口にする。

あの、バレンタインの時だって……。

俺と蒼真は西園寺から大きなダンボールを受け取り、会長机の脇に置いた。 西園寺は、チョコレートの山から1つを手に取ると包みを開け、部屋の中央にある長机の上に置いた。 15個ほどの丸っこいチョコレートが紙のカップに包まれて、行儀よく箱に並んでいる。 俺にはチョコレートの銘柄なんて分からなかったが、いかにも高級そうな雰囲気が漂っていた。

「俺一人では食いきれないからな、みんなでつまんでいいぞ」

「え、でも……」

呉羽は机の上のチョコレートと西園寺の顔を交互に見やった。 おそらく、贈り主の気持ちをおもんばかってのことだろう。

「安心しろ、どれもちゃんと一口は食べている。 ……ただ、全部は無理だ」

西園寺は1つをつまみ上げて、口に入れた。

「へぇ、意外」

言いながら、蒼真も1つ取って口に放り込む。

「そうなんだ、よかった。 じゃあ、私も1つもらいます」

呉羽もほっとした表情で、それに続いた。

俺も手を伸ばしかけたが、ふと気になって、西園寺に尋ねてみた。

「これくれたの、誰?」

「忘れた」

「おいおい……。 こんな奴に渡したばっかりに、かわいそうに」

蒼真が大げさに天を仰ぐ。 西園寺はそれを横目に見ながら、突然俺に質問を投げかけてきた。

「霧谷、お前ならどうする?」

「え?」

「お前が、大量にチョコをもらっている相手にチョコを贈るとしたら、どうする?」

チョコレートを贈る女性の気持ちなんて分からなくて、俺は少し悩んでから答えた。

「……うーん、俺なら、ひたすらアピールするかな」

「ほう?」

俺の答えに興味を持ったらしく、西園寺が身を乗り出す。

「所詮、たくさんの中の1個だ。 まず、気に留めてもらえないだろう。 仮に気に留めてもらえたとしても、このチョコレートを贈った人みたいに、忘れらてしまうかも知れない。 だったら、ちゃんと印象に残るようにアピールする」

「なるほど」

西園寺は感心したようにうなずいて、チョコレートを1つつまみ上げた。

「いかに俺と言えど、記憶領域は有限だからな。 ならば、より印象づけた方が勝ち、ということか」

さりげなく自賛しながら、西園寺はチョコレートを持った手を、そのまま俺の顔の前に伸ばしてきた。 そして、目で何かをうながす。 俺はその意図を察し、しぶしぶ口を開けた。

「俺の手まで食うなよ」

そう言って、半ば押し込むように俺の口にチョコレートを放り込む。 ……このチョコレートの贈り主が知ったら、呪い殺されそうだ。 俺は心の中で架空の贈り主にわびつつ、おそらく高級品であろうチョコレートの味を堪能することにした。

「で、霧谷」

「?」

「今、お前にキスしたら、さぞかし甘いんだろうな」

しゃべれない俺の代わりに、後ろで蒼真が椅子を蹴倒した。

……あの時と同じだ。

また、いつものように俺をからかって、遊んでいる。 西園寺の淡々とした態度が、かえって俺を冷静にさせた。

「……違う。 そもそも、意味が違う」

俺は西園寺をキッと睨み返して言った。 俺だって、いい加減に我慢の限界だ。

「意味?」

「お前の言う、『俺のもの』の意味。 『俺が確保してる人材』って意味だろ」

そう、西園寺の言う『俺のもの』とは、すなわち『俺の人材』なのだ。 彼の目的を達成するために、動いてくれる存在。 それを常に手元に置き、必要な時にすぐに使える状態にしておきたい。 それが、彼の『俺のもの』にするということだ。

俺や四季会のメンバーは、そのことを十分に理解していた。 だから、これまで西園寺が誰に対して『俺のもの』発言をしようと、みんな受け流していた。 だが、当然ながら、一般生徒はそんな事情を知らない。 西園寺の言う『俺のもの』の意味を、額面どおりにやばい意味で受け取ってしまう。 その結果が今の状況、俺にとっては針のむしろだ。

俺は言葉を続けた。

「お前が、俺を確保しておきたいと思ってるのは、分かってる。 ……理由は、多分俺の剣の腕だろ。 そんなの、買いかぶりだと思うけど」

西園寺は、こちらを見つめたまま黙っている。 その視線が突き刺さってくるみたいで、俺は少し目をそらした。

「蒼真や椎名達も、それは分かってる。 だから、あいつらの前で『俺のもの』だとか言うのは、別にいいんだ」

本音を言うと、できれば発言自体を止めて欲しかった。 そもそもが俺の能力を買いかぶった上での発言なので、言われる度に背中がむずがゆくなる。 だが、今はひとまず許容しておいた。

「でも、あいつら以外は、そういう風には受け取ってくれない。 さっきも言ったとおり、変な噂になってるんだよ。 お前は気にしないかも知れないけど、俺は……」

「霧谷」

一気にまくしたてる俺の言葉を、西園寺が遮った。

「お前は、俺と噂を立てられるのは嫌か?」

「……当たり前だ」

お前は嫌じゃないのか、という言葉を俺は飲み込んだ。 多分、話がこじれる。

「そもそも、誤解だし」

「いや、誤解じゃない」

そう言うと、西園寺は俺のすぐ近くまで歩み寄ってきた。 そして肩に手を置いて、顔を近づける。

「確かに、俺は人材としてお前を必要としている」

そう告げる息が耳のあたりにかかって、くすぐったい。 俺は少し身をよじった。

「以前はその意味だったんだが……この間から使い方を変えた」

「……変えた? どういう……」

西園寺は、顔をさらに俺の耳元に近づけて、告げた。

「愛している」

「……は?」

一瞬、俺はその言葉の意味するところが分からなかった。 そして理解した時、頭を金槌で殴られたような感覚に襲われた。 視界がぐらりと揺れて、バランスを崩しかける。 手に提げていたカバンが、鈍い音を立てて地面に落ちた。

「お、お前、まだそんなこと……っ」

そう叫んだ俺の声は、裏返っていた。

愛している。

その響きは、俺の頭の中で何度も反響を繰り返す。 それに合わせて、心臓の鼓動が早くなっていく。 俺は、肩に置かれた西園寺の手を振り払って、後ずさった。 何故か、西園寺の顔を直視できない。 からかわれていると、分かっているのに。

西園寺とは、中学校に入った時に、蒼真の紹介で知り合った。 一緒に剣道部に入部して、今までに何度も手合わせしてきた。 互いに反発したこともあったが、俺にとっては、大切な友人。 それ以上でも、それ以下でもなかった。 なのに、今は耳まで赤くなっているのが自分でも分かる。

何を動揺しているんだ、と理性が問いかける。

お前にとっての西園寺は「ただの友人」で、西園寺にとってのお前は「ただの人材」だ。 またいつものように、お前をからかって楽しんでいるだけだろう。

でも、と感情が反論する。

今まで、こんな風にしつこくお前をからかったことがあったか? 相手は本気なんじゃないのか? そして、お前自身は……。

「……っ」

俺はどうしていいか分からなくなり、頭を振った。 そもそも、俺も西園寺も男だ。 本気でそんなことを言っているとは思えない。 いや、思いたくない。 俺はさらに一歩後ずさった。 その俺の腕を、西園寺の手が捉えた。 掴む力自体は強くなかった。 だが、俺はそれ以上後ろに下がれなくなった。

「霧谷。 バレンタインの時にお前が言ったこと、覚えているか?」

「……何の、ことだよ……」

「印象づけが大事、なんだろう?」

「印象づけ……?」

どこかで聞いたことがある。 俺は必死に記憶のページをめくった。

――お前が、大量にチョコをもらっている相手にチョコを贈るとしたら、どうする?

――うーん、俺なら、ひたすらアピールするかな。

――所詮、たくさんの中の1個だ。 まず、気に留めてもらえないだろう。

――だったら、ちゃんと印象に残るようにアピールする。

「あ……」

思い出した。 確かに、印象に残るようにアピールすると言った。 好きな相手に、気に留めてもらえるように、振り向いてもらえるように。 まさか、それが西園寺がやたらと『俺のもの』を口にするようになった理由? 俺に対して印象づけるためだった、とでもいうのか?

そんな馬鹿な。 でも、そう考えると時期的にもつじつまが合う。 西園寺の攻勢が始まったのは、ちょうどバレンタインの頃で――

俺はおそるおそる尋ねてみた。

「まさか……まさかとは思うけど……。 さんざん『俺のもの』を公言しまくってたのは、俺に印象づけるために、とか……?」

西園寺は無言で頷いた。

「なん……だよ、それ……っ」

つまり、最初から西園寺の予定通りだったというわけだ。 噂になることも、それを俺が気にすることも。 俺は、心の底から叫んだ。

「……そんな回りくどいことしないで、最初から言えばいいだろう!」

西園寺にではなく、自分に腹が立っていた。 見事に策に嵌って、ずっと西園寺の言動が気になっていた自分が情けない。

「回りくどいやり方は好きじゃないが……お前が言った方法だからな」

西園寺は俺から視線を外し、誰に向けるでもない風につぶやいた。

「どうせなら、それで射止めてやろうと思った」

そう言って、また俺の方に向かって笑顔を見せた。 その表情は、いつものような余裕たっぷりのものではなく、少し照れているように見えた。

「……っ」

滅多に見せない、無防備な表情。 俺はそれ以上、何も言えなくなった。

そして、数秒の沈黙の後、西園寺が動いた。

「……霧谷」

空いている手を伸ばして、俺の顎に手をかける。 その手首が軽くひねられると、俺はやや上を向かされる格好になった。 いやな予感がした。

「さ、西園寺……?」

「ん?」

西園寺の、眼鏡の奥の瞳が細められた。 さっき見せた、照れたような表情はすでになく、不敵そのものだ。

「何、する気……?」

西園寺の顔が近づく。

「……分かってるくせに」

分かっている。 だが、分かっていても、体が動かない。 声にすることもできない。 耳の中で、自分の心臓の音だけが反響している。 視界が金色と肌色にぼやけた。

「や、め……っ」

次の瞬間、俺の頬に何か触れた。 それが西園寺の唇だと理解するのに、時間はかからなかった。

「……え?」

「今日のところは、これで我慢しておこう。 その代わりに……」

西園寺は顔を上げて、余裕たっぷりに微笑んだ。 一瞬、眼鏡が光る音が聞こえた気がした。

「ホワイトデーに、返してもらおうか」

俺は、ようやく正気を取り戻した。 依然として体は硬直してしまって動かないが、辛うじて反論することはできた。

「……ホワイトデーって……俺、お前から何ももらってな……」

「やっただろう? チョコ」

チョコって……。 まさか、俺の口に押し込んだあれのことか!?

「だ、だってあれは、お前がもらったもので……」

「関係ない。 俺から受け取ったんだから、俺に返してもらう」

俺は言葉を失った。 本当に、あのチョコレートの贈り主に呪い殺されてしまうんじゃないだろうか。 顎にかけられていた指が、少し動かされた。 西園寺の親指が俺の唇をなぞる。

「それに俺は、お前のキスが甘いかどうか、確かめないといけないからな」

「な……っ!」

「期待しているぞ」

西園寺は満足げに笑うと、ゆっくりと俺から手を離した。

西園寺から開放されると、俺は思わずその場にへたりこんだ。 当の西園寺は、涼しい顔だ。

「さて、光風館に行くんだろう?」

そう言って、俺を追い越して歩いていく。 俺はしばらく、ぼんやりとその姿を目で追っていた。 10メートルくらい離れたところで、西園寺が俺を振り返った。

「どうした? 早く来い、霧谷」

その声に、俺の体は弾かれたように動いた。 立ち上がりかけて、気付く。 今、俺はあいつのところに走り寄ろうとした。 あんなことをされた直後だというのに。 キスされた頬が、かあっと熱くなり、思わず手を当ててしまう。

「冗談じゃ、ない……」

俺は地面から自分のカバンを拾い上げ、進行方向を睨みつけた。

「霧谷」

西園寺が、再度俺を呼ぶ。

本当に、冗談じゃない。 西園寺の口ぶりと表情からは、絶対の自信を感じた。 自分が「来い」と言ったら、来る。 そう信じて疑っていない。 俺が拒絶することなど、最初から頭に無いかのようだ。

そして、多分それは恋愛に関しても同じだろう。 きっと西園寺は、俺が告白を蹴るなんて微塵も思っていない。 まったく、迷惑な話だ。

でも、何故か俺は、その自信が嫌いじゃない。

「……うるさいな、今行くよ!」

俺は結局、西園寺の隣に駆けて行った。

END