Morning Firewall -type A-
- 関連イラストがあります >> 終電を逃した朝
- 書いた日:2010.11.29
目覚まし時計の甲高い電子音が、朝の静寂を破った。 僕は腕を伸ばして、それをどうにか黙らせる。
「んー……」
できれば、もう少し寝かせてほしい。 明らかに寝不足だ。 体も重い。
目をこすりながら大きく伸びをすると、視界の隅にちらりと人物の姿が映った。 僕が寝不足に陥っている、最大の原因。 琥珀色の柔らかい髪をシーツの上に散らして、その人はすやすやと寝息を立てている。
「……凛太郎さん、朝だよー」
小声で呼びかけて、そっと頬を指でつついてみる。 程よい弾力感が僕の指を押し返した。 でも、凛太郎さんが起きる気配は、一向にない。
「……まったく、いい気なもんですね」
僕は悪態をつきながらも、もう少しだけ寝かせておいてあげることにした。 だって、その寝顔があまりにも気持ちよさそうで……僕まで幸せな気持ちになったから。
僕は凛太郎さんを起こさないようにベッドを抜け出して、浴室へと向かった。 熱いシャワーを全身に浴びて、夜の名残を洗い流す。 次第に、体の重さも取れていった。 腰をひねるとちょっと痛いけど……まぁ、そのうち治るだろう。
さて、今日も一日頑張りますか。
シャワーを止めてドアを開けると、ちょうど入ってきた凛太郎さんと鉢合わせした。
「おはよ」
「あ、おはようございます。 自分で起きるなんて、今日は雪が降るかな」
「……言ってろ」
軽く手をタッチさせて、僕は凛太郎さんと場所を交代した。
バスタオルを借りて体を拭きながら、僕は昨夜のことを思い出す。 そもそも、僕はこの部屋に泊まるつもりはなかったんだ。
昨夜、僕はここ――凛太郎さんの部屋に遊びに来た。
二人で家庭用ゲーム機のシューティングゲームで対戦していたら、白熱しちゃって……気がついた時には、時計の針が夜の1時を廻っていた。 新宿駅からの最終電車は、とうに出てしまった後。 僕もうっかりしていたけど、どうも凛太郎さんは気づいていたのにわざと言わなかったようだ。
……そういうとこ、ちょっとムカつく。
仕方がないので、部屋に泊めてもらえないかと聞いてみた。 そうしたら、意外な言葉が返ってきた。
「泊めてあげてもいいけど、タダじゃないぜ?」
「……え、お金取るんですか?」
「当然。 もちろん、支払いは体で、な」
凛太郎さんは、僕の体を抱き寄せながら、耳元で囁く。
……そういう風に口説くの、やめてほしい。
耳朶に吹きかけられた甘い吐息ひとつで、僕はたやすく凛太郎さんの言いなりになってしまう。 しかも、僕が耳が弱いことを知っていて、わざとその方法を使ってくるんだから、始末に負えない。
「……いくら払えばいいんですか」
「んー……朝まで、かな」
凛太郎さんの唇が、僕の唇に重なる。 でもそれは、触れるだけのキス。 そのことにじれったさを感じながら、僕は一応抗議の言葉を口にした。
「……高いよ」
「そう? じゃあ、半額にしてあげてもいいけど」
その代わり、俺からのサービスも半分ね。
凛太郎さんはそう言って、僕の唇に人差し指を押し当てた。 それが火箸でも押し付けられたかのように熱くて、もどかしくて、僕はつい口を滑らせた。
「……いい。 全額払う……」
「ん、契約成立」
凛太郎さんが僕の頬に手を添えて、顔を近づけた。 交わされたのは、深くて、とても甘いキス。 そのとろけるような快感をむさぼりながら、僕は心の中で文句を言う。
……本当に、ムカつく……。
結局、凛太郎さんが有言実行してくれたせいで、僕は空が白み始めるまで寝かせてもらえなかった。 少しはうとうとできたけど……間違いなく寝不足だ。 これじゃ「泊めてもらった」とは言えないんじゃないだろうか。
だいたい、前に僕の駅で「全力階段」をやった時には途中でギブアップしたくせに、ベッドの中ではなんであんなに体力が持つのか、不思議でしょうがない。 さすがは世界に名だたる不夜城、『新宿』といったところだろうか。
寝室に戻った僕は、バスタオルを腰に巻いたまま、ベッドの縁に座った。 足元に目をやると、僕と凛太郎さんの服が、乱雑に脱ぎ捨てられている。 その中から自分の服を選びながら、僕は小さくため息をついた。
昨夜、僕は私服でこの部屋に来た。 当然、自分の制服を持ってきてなどいない。 これからミラクル☆トレインに『出勤』する前に、一度自分の部屋に戻って制服に着替えてこないといけない。 普段ならなんてことのない行動だが、今朝はどうにもおっくうだ。
僕は服を胸に抱えて、そのままベッドに倒れこんだ。 枕に顔をうずめると、凛太郎さんの使っているシャンプーの香りがした。 いつもキスした時にふわりと鼻をくすぐる……いい香り。
……なんだか、凛太郎さんに抱きついているみたいだ。
そう思ったら、つい嬉しくなってしまった。 でも、凛太郎さんには内緒。 バレたら、どれだけからかわれるか、分かったものじゃないから。
夢うつつで幸せにひたっていた僕の耳に、無情な言葉が聞こえた。
「こら史、二度寝か?」
「……あと5分」
僕は顔を上げずに答える。
「はいはい、お約束だな」
こん、と僕の頭の上に何かが当てられた。 そこからじんわりと暖かさが広がる。 大きさから考えるに……たぶん、暖かい飲み物の入ったマグカップだ。
「そんなカッコで寝てると、湯冷めするぞ」
僕がしぶしぶ体を起こすと、すでに制服姿の凛太郎さんが、手にマグカップを持って立っていた。 カップからは、湯気と、コーヒーのいい香りが一緒に立ち上っている。
差し出されたマグカップには、カフェオレが注がれていた。 受け取って一口含むと、ほろ苦い味が口いっぱいに広がる。 凛太郎さんは僕の隣に腰を降ろした。 そして僕の肩に腕を伸ばして、自分の方に引き寄せる。
湯上りの体は、その手のひらも、シャツ越しの腕も、とても暖かい。
「……っ」
「ほら、冷えてきてる。 ……あっためてやろうか?」
「……結構です」
気恥ずかしさをごまかすように、僕は再度カップを口に運んだ。
「疲れてそうだったから甘くしたけど……ちょっと甘すぎたか?」
凛太郎さんは僕を抱き寄せたまま、尋ねてきた。 頬のあたりに髪の毛があたって、ちょっとくすぐったい。
たしかに、いつも淹れてくれているものよりも甘い。 でも、僕が疲れてるのは、他でもない凛太郎さんのせいだ。 僕は悪態で返すことにした。
「もっと甘くてもいいくらいですよ。 誰かさんのせいで、すごく疲れてるんで」
「そっか。 じゃあ……」
凛太郎さんの顔がさらに近づいて……その唇が、僕の唇を塞いだ。
「ん……んぅ!?」
次の瞬間、唇の隙間から凛太郎さんの舌が入ってきて、僕の口内をかき回した。 ほろ苦さが、あっという間に甘さへと変わっていく。
同時に、たまらない恥ずかしさが僕を襲った。 どうやら、だんだんと『昼の』僕になってきているようだ。 でも、それが自覚できたところで、恥ずかしさが打ち消されるわけじゃない。
唇が離された時には、僕はすっかり息が上がっていた。 たぶん、顔も赤い。
「これでどう? ……甘いの、足りた?」
凛太郎さんが耳元で囁く。
……だから、それはやめてほしいんだって。
「胸やけ、しそう……」
そう言うのが、やっとだった。
満足そうに微笑んで、凛太郎さんはようやく僕を離してくれた。 冷えていた肌は、凛太郎さんの体温とカフェオレの温もりで、じんわりと温まってきた。
「ああ、そうだ。 これこれ」
「え?」
凛太郎さんは立ち上がって、壁際のクローゼットを開けた。 そしてその腕に白い何かを抱えて、僕の横に放った。
白い……ワイシャツ?
その正体はすぐに分かった。 凛太郎さんの制服のスペアだ。
「わざわざ着替えに戻るなんて、面倒だろ? それ着て『出勤』すればいいって」
ほら、と凛太郎さんはズボンもこちらに投げてくる。 続けて、マゼンタ色のネクタイも。
「でも……」
「サイズは一緒だし……それにほら、おそろいだぜ?」
戸惑う僕に、凛太郎さんが自分のネクタイを指し示しながら、悪戯っぽくウインクする。
おそろい、かぁ。
……それ、いいかも。
「……分かりました。 確かに戻るのは面倒だし……おそろいにしてあげますよ」
僕がそう言うと、凛太郎さんは僕を正面から抱え込んだ。 僕の側頭部に両拳を当てて、ぐりぐりと頭を圧迫する。
「ちょ、やめて……っ」
「なーにーがー、してあげます、だ。 着たいならちゃんとそう言えっ」
とても楽しそうな凛太郎さんの声が上から降ってくる。 押さえる力は加減してくれているようで、たいして痛くない。
僕が持っているマグカップの中で、カフェオレがちゃぷんと跳ねた。 僕はバスタオル一枚だからいいとして、凛太郎さんは制服――白いワイシャツを着ている。 カフェオレが飛んで、シミになったら大変だ。
「や、あ、だめっ、こぼれちゃ……っ」
僕の頭を押していた両手が、ふいに離れた。 顔を上げると、放心したような凛太郎さんと目が合う。 凛太郎さんは僕から視線をそらしながら、もごもごとつぶやいた。
「史……朝からそんなエロい声出すなよ……」
「なっ……そ、その言葉、そっくりお返ししますっ!」
……何から何まで、気が休まらない。
僕が着替えてダイニングに行くと、すでにテーブルの上には朝食が用意されていた。 トーストの香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「……どう、ですか?」
僕は、自分の今の格好について、おそるおそる凛太郎さんに尋ねた。 ちょっとだけ大胆に胸元をはだけさせた白いワイシャツに、規定のズボン。 スクエアカットのネクタイは、胸の前で緩く交差させるだけ。
いつも着ている制服のアレンジにすぎないのに、どうにもしっくりこない。
凛太郎さんは、興味深そうに僕の全身を見回す。
「うん、なかなか似合ってる」
「そ、そうですか?」
「ああ、あいつらに見せるのがもったいないくらいだ。 ……っと、それ」
凛太郎さんは、僕が寝室から持ってきた空のマグカップを指す。 うながされるままにそれを手渡すと、凛太郎さんのウインクが返ってきた。
「おかわり、同じのでいい?」
「……あ、はい」
凛太郎さんの背中を見送って、僕はそっと胸に手を当てた。 心臓の鼓動が、早い。
しっくりこない原因は、分かっていた。 着こなしの問題じゃなくて、着ているモノの問題。 着ているのが僕の制服じゃなくて……凛太郎さんの制服だから。
デザインも、サイズも同じ。 でも、決定的に違うものがある。 それは、さっきネクタイを結ぶ時にふわりと漂った。
洗剤と、それから凛太郎さんがよくつけている香水とがない混ぜになった――とてもいい香り。 この制服が凛太郎さんの着ていたものだという、確かな痕跡だ。
僕は目を閉じて、そっと袖を鼻に近づけた。 凛太郎さんの香りが、じんわりと僕の嗅覚を満たしていく。 さっき枕に顔をうずめていた時は、まるで凛太郎さんに抱きついているようだった。 でも今度は、まるで……。
「……抱きしめられてるみたい」
思わず口に出た言葉に、余計に僕の心臓が脈打つ。 改めて意識してしまうと、ますます落ち着かない。 気をそらそうと、手近にあったネクタイをぎゅっと握り締めた。 でも逆効果で、僕はどんどん混乱していく。
……どうしよう。
僕の髪をくしゃりと撫でて、優しく笑う凛太郎さんのイメージが、頭の中から離れない。
「……史?」
ぐちゃぐちゃになりかけた僕の頭の中に、凛太郎さんの声が響いてきた。 凛太郎さんは湯気の立つマグカップをテーブルに置いて、呆然と立ちすくんでいる僕の方に歩いてくる。
「どうした?」
「えと……何でも、ないです」
僕が曖昧に答えると、凛太郎さんは僕を覗き込んだ。 僕の顔、それから首のあたりをまじまじと見つめる。 そんな風にじっと見つめられると、どうにも恥ずかしい。
「……こら」
凛太郎さんは、無造作に僕の襟元に手を伸ばした。 開いた襟をかき合わせて、ネクタイの結び位置を上に引き上げる。
「な、何?」
「あんまり見せびらかすな、これ」
凛太郎さんは、僕の鎖骨のあたりを、服越しに指で押した。
……『これ』って、鎖骨のこと?
僕の疑問に、凛太郎さんは目を細めて笑う。
「キスマーク。 ほら……昨夜いっぱいつけてあげたろ?」
「……っ!!」
「お前のおねだり、可愛かったよ。 でも、それ見て他の奴が欲情したら、大変だからな」
「だ、誰も……貴方じゃあるまいし……っ!!」
僕はそう叫ぶのが精一杯だった。 今はあまり思い出したくない昨夜のできごとが、あっという間に僕の頭を埋めつくす。
(史、ここにも……)
(……んぅ、くすぐった……ぁ……)
(ふふ、可愛い。 ……あと、どれだけつければいい?)
(僕が満足するまで……僕のこと好きだっていう証拠、いっぱいつけて……)
首元も、二の腕も、脇腹も……とにかく全身撫で回されて、キスされた。 しかも、僕がそうして欲しいとねだった。
そんなこと、鮮明に思い出したくない……っ!
恥ずかしくて恥ずかしくて、今にも倒れそうだ。
僕が抱え込んだ頭の上に、凛太郎さんの手がぽんと乗せられた。 こわごわ顔を上げると、凛太郎さんはまた楽しそうに笑って……僕の頬に唇をくっつけた。
「さ、朝メシ。 早く食べないと遅刻するぜ」
凛太郎さんは、何事もなかったかのように自分の席へと歩いていく。 ほら、と目でうながされて、僕もぎこちなく席につく。
淹れなおしてもらったカフェオレを一口飲むと、さっきと同じ、甘さとわずかな苦味が口の中に広がった。 僕は凛太郎さんに聞こえないように、小声でつぶやく。
「……バカ」
昨夜僕が終電を逃して帰れなくなったのは、気づいていてわざと言わなかった、この人のせい。 寝不足でなんとなく体が重いのも、朝まで寝かせてくれなかったこの人のせい。 朝から僕がこんなに恥ずかしい思いをして、慌てさせられているのも、全部。
……本当に、ムカつく。
首元には、散々キスされた跡。 それを覆い隠しているのが、緩く交差させたネクタイだけだなんて、ひどく頼りない。
ドキドキして……こんな薄いシャツ一枚じゃ押さえきれないくらい体が熱くて、こんなに頭の中がぐちゃぐちゃになって、朝から醜態を晒して。
しかもその相手は……僕の嫌いな『新宿』。
それでも、笑ってキスされたら許してしまう。 耳元で口説かれたら、どんな恥ずかしいことだってしてしまう。 そんな矛盾だらけの僕自身が、本当に……本当にムカつくんだ。
僕の葛藤なんておかまいなしに、凛太郎さんはまた笑顔をこちらに向ける。
「史」
「……なんですか」
僕はぶっきらぼうに答える。 それでも凛太郎さんは笑顔を崩さない。 それどころか、ますます嬉しそうな顔になる。
「……今夜も、泊まってくか?」
「結構です……っ!」
ああもう、何で僕はこの人のことが好きなんだろう。 考えてもまったく結論が出なくて、僕はまたカフェオレを口に運んだ。
ほろ苦いはずのカフェオレは、ひどく甘かった。
END