De facto Standard Spring

昼には賑わいを見せているであろうその一帯も、夜遅くともなると、すっかり静寂に包まれていた。 六本木ヒルズの外れにあるその道は、さほど道幅の広くない、曲がりくねった坂道である。 両脇には洗練された佇まいのマンションが立ち並び、空を見上げるとさながら箱庭のようだ。 歩道の端には、この坂の名前の由来である桜が整然と植えられ、都会の空へと枝を伸ばしていた。

「どうです? 夜は夜で、綺麗でしょう?」

新宿の数歩先を歩いていた六本木が、後ろを振り返って尋ねた。 その表情は、どこか誇らしげだ。

桜が咲くこの季節は、夜になると桜の根元につけられた照明が点灯する。 ライトアップされた満開の桜は、まるでそれ自身が光を放っているかのように、その輪郭を浮き立たせていた。 淡いピンク色の花びらが闇に浮かぶ光景はとても美しく、彼が誇るのも当然だった。

「ああ。見事なもんだ」

弾んだ足取りで、六本木は坂を降りていく。 その歩みは、今にもスキップに変わりそうだ。 はしゃいでいる子供のようなその姿がとても可愛らしくて、新宿は思わず目を細めた。

この時間帯の六本木は、いつにもまして『スマートさ』に磨きがかかっている。 それだけに、いつもとは対照的なあどけない仕草は、新宿の心を強く惹きつけた。

「おいおい。あんまりはしゃいでいると、転ぶぞ」

「子供じゃないですよー」

返事をしながら、六本木はもう一度新宿を振り返る。 街灯に照らされたその横顔は、彼の声と同様に、とても楽しそうだ。

(……いや、十分子供だろ)

せっかくの雰囲気に水を差さないよう、新宿は心の中だけでツッコミを入れた。

彼らの歩いている道の先は、大きくカーブしていた。 六本木の姿は角にある建物の影に隠れて、新宿の視界から消えた。 新宿は、少し開いてしまった二人の距離を縮めるべく、少し歩を早めようとした。

「……ん?」

新宿は踏み出していた足を止めた。 彼の周りの空気が、かすかに揺れたように感じたのだ。 だが、辺りには変わった様子もない。

気のせいか、と再び歩き出そうとした瞬間、彼の正面から強烈な風が吹きつけてきた。

「……う、うおっ!?」

新宿は、思わず腕で顔を覆った。 歩くことはおろか、目を開けていることも辛いほどの突風。 それは夜の静寂を破り、轟音とともに狭い道を縦横無尽に荒れ狂う。

彼の脇に植わっている桜の木が、まるで悲鳴のように、ざわざわと梢を揺らした。 だが、そのざわめきすらも風の音にかき消されてしまう。

風は大量の花びらを巻き上げて、ひとしきり荒れ狂い……やがて、何事も無かったかのように通り過ぎていった。

新宿は乱れた髪を手で軽く整え、ため息をついた。

「……すごい風だったな……」

再び歩き出してカーブを抜けると、新宿の前には、見通しのよい真っ直ぐな道が広がっていた。 道の先は別の道路と交差しているらしく、街灯とは違う灯りで彩られている。

新宿は、同じように強風の被害に遭ったであろう六本木に声をかけようとした。

だが、その姿がどこにも見当たらない。

新宿は周囲を見回してみたが、静かに佇んでいる桜の木以外には何も見えない。 街灯と桜を照らすライト、それに建物の窓から漏れる光のおかげで、夜遅くとはいえ人を見失うほどの暗さではない。

見通しのよい道。 さほど開いていなかった距離。 それでも、六本木の姿は見えない。

「……六本木?」

新宿が発した言葉は、再び勢いを増した風の音にかき消された。

脇の車道を、車が通り過ぎていく。 低いエンジン音と、風の音、それに桜が枝を揺らす音。 闇に浮かぶ桜の花びらが、風に乗ってひらりと新宿の目の前を横切った。

映画のワンシーンを切り取ったかのようなその光景を、新宿は呆然と眺めていた。

「どこ……行ったんだ?」

まるで、忽然と消えてしまったかのようだった。

新宿は、その場所に立ち尽くしていた。 あたりを歩いて探すこともできたが、まるで縫い止められてしまったかのように、足が動かない。 桜の花びらが、また彼の目の前を落ちていく。

その重い静寂を、聞きなれた声が破った。

「新宿さーんっ」

聞こえてきた軽快な足音と、道の奥に揺れる影。 やがて、それははっきりと認識できる形になった。 軽く息を弾ませて、六本木が緩やかな上り坂を駆けてくる。

六本木は新宿のすぐ側まで来ると、いつも通りの、不敵かつ穏やかな笑顔で謝罪した。

「すみません、ずいぶんと先に行っちゃってたみたいで」

「……」

新宿は言葉に詰まった。

六本木が消えてしまったように感じたのは、ほんの一瞬の出来事だった。 だが、その短い間に、新宿はひどい孤独感と焦燥感に襲われていた。 普段なら、どこへ行ったのだろうかといぶかしく思うことはあっても、動揺することなどない。

新宿は腕を伸ばし、六本木を自分の胸へと引き寄せた。 その行動の理由が分からず、六本木は不思議そうに尋ねる。

「……新宿さん? もしかして、先に行っちゃったこと、怒ってます?」

新宿は答えずに、その体を強く抱きしめた。 腕の中で、事情を飲み込めない六本木が身じろぎする。 新宿はぽつりと、彼をそうさせているものの正体を口にした。

「……攫われたのかと思った」

六本木は、新宿の顔をまじまじと見つめた。 彼からしてみれば、新宿の言っていることは、あまりに突拍子もない。 六本木は、至極真っ当な質問を口にした。

「攫われた、って……誰に?」

「……桜に」

そう告げる新宿の顔は真面目そのもので、若干の悲壮感さえ漂っていた。 その表情と発言とのギャップがおかしくて、六本木はくすくすと笑い出した。

「ふふ、何ですかそれ」

「……」

新宿としては、自分の感情を率直に口にしただけだった。 だが、そうも笑われてしまっては、とんでもなく的外れなことを言ったような気がしてくる。 新宿は、六本木を強く抱いていた腕をそっと緩めると、バツが悪そうに視線をそらした。

古来から、日本人は春を象徴する花として、桜を愛でてきた。 咲き誇る花の美しさ、そして散り際の儚さ。 淡いピンク色に煙るその樹を、人々は愛してやまない。

そして、その強い愛情は、同じくらい強い反動を引き起こす。 人々は、桜にある種の『魔力』が備わっているかのように感じ始めたのだ。 それも、人を惹きつけて惑わせるような、底なしで強大な『魔力』が。

「新宿さん」

六本木は少し微笑んで、一度離した体をもう一度近づけた。

「んー?」

新宿はなお、気まずそうに視線を合わせようとしない。 その耳元へと唇を寄せ、先ほどばっさりと切り捨てたのとは対照的に、とびきり甘く囁く。

「……ロマンチストですね」

六本木は、新宿の突飛な発言の理由を理解したらしい。

日本人の無意識に刻み込まれた、桜への複雑な感情。 たとえ彼らが人ならざる者であっても、その想いは確かに宿っているのだ。

(……フォローどうも)

新宿は少しだけ苦笑して、六本木の肩に手を置いた。

「ここの桜は……どうにも油断ならない雰囲気だからな」

「今朝、貴方が綺麗だって褒めてたのと、同じ桜ですよ?」

六本木が首をめぐらせる。

二人は今朝、六本木の提案でこの道を散策していた。 道全体が淡いピンク色に染まったその光景を、新宿は絶賛していた。 朝の日差しに映えていたその桜は、今は闇にぼんやりと浮かんでいる。

「ああ、夜になったら雰囲気変えやがって。……まったく、お前にそっくりだ」

新宿の言葉に、今度は六本木が視線をそらした。 相手に聞こえるか聞こえないかの小さな声で、不満そうにつぶやく。

「……それ、今の僕は可愛げがないって言ってます?」

六本木はわざとらしく頬を膨らませていたが、何かに気づいて新宿を覗き込んだ。

「ん、何?」

「髪の毛に、花びらついてますよ」

新宿が髪に手をやろうとするのを、六本木はやんわりと止めた。 そして、代わりに自分の手を伸ばす。

「だめ、動かないで。取ってあげますから」

六本木は新宿の前髪についていた花びらを器用につまむと、自分の口元へ持っていった。 ふぅ、と息を吹きかけると、花びらはふわりと風に乗る。 花びらの描く柔らかな軌跡を目で追いながら、六本木は同意を求めた。

「綺麗ですね」

「……ああ」

ひらひらと都会の闇に溶けていく花びらは、とても美しかった。 だが新宿は、それには大して興味をそそられていなかった。 彼の目の前で、その様子を楽しそうに見ている人物の方が、よほど彼の心を捕らえて離さない。

(夜は夜で……十分可愛いよ)

新宿の視線に気づいたのか、六本木は視線を戻し、もう一度新宿の顔を覗き込む。 少しだけ上目遣いの色っぽい仕草に、新宿の胸はざわりと波立つ。

「あ、こっちにも……」

六本木は無造作に腕を伸ばして、新宿の前髪に触れた。 彼の髪に絡まっていた花びらをつまみあげると、また風にふわりと乗せてやる。 六本木はさもおかしそうに、口元をほころばせた。

「ふふ、花びらまみれですよ」

「そりゃ、あれだけの突風に見舞われたら、花びらまみれにもなるさ。お前は大丈夫だったか?」

先ほどの強風で乱れてしまった髪は整えたが、さすがに絡まった花びらまでは取ることができない。 新宿は少し照れたように、自分の前髪を手で梳きながら答えた。

だがそれに対して、六本木はいぶかしそうな表情を浮かべた。 そして、新宿が想像だにしていなかった言葉を発した。

「……突風? 何のことです?」

「……へ?」

「……へぇ。そんなに強い風だったんですか」

「ああ、まともに動けないくらいのな」

新宿が事の次第を説明すると、六本木は心底意外そうな表情を浮かべた。 大きな建物の周辺では、ビル風と呼ばれる強い風が発生することがある。 だが、さほど離れていない場所にいた六本木が一切気がつかないほどの局地的な突風が、それで説明がつくのだろうか。

六本木は、しばらく顎に手を当てて考え込んでいた。 ややあって、何か思いついたように顔をあげると、新宿を真っ直ぐに見つめた。

「もしかして……桜が攫いたかったのは、僕じゃなくて貴方だったのかも」

「……俺?」

新宿は首をかしげた。 六本木は小さくうなずいて、新宿との距離を詰めた。 相手の肩口に頬を乗せるようにしなだれかかると、若干の艶やかさを含ませた声で囁く。

「だって、僕に似ているなら……好みも一緒かもしれませんよ」

六本木がこの声色を使うのは、決まって甘えたがっている時である。 新宿はそれに応えて、寄りかかられている方の腕を動かし、相手の腰に回してやった。

「……そうかも、な」

六本木は自分の『おねだり』が聞き入れられて、満足そうに微笑んだ。 そして新宿の頬に自分の唇を寄せようとして、あることに気づいた。

新宿の鎖骨の上あたりの首筋に、桜の花びらが1枚、張り付いている。

「あ、首のとこにもついて……」

六本木はそこで言葉を途切れさせた。 花びらを取ろうと動くこともせず、何やら眉を寄せたままで黙っている。

「どうした?」

「……なんだか、キスマークみたい」

六本木は、うってかわって不機嫌そうな声で答える。 そして、八つ当たりでもするかのように、指先でその花びらを弾いた。

新宿の肌から離れた花びらは、くるくると回転しながら、地面へと落ちていく。 六本木はそれを興味無さそうに見やって、また新宿に視線を戻した。 その眼差しは、先ほどまでの甘えたものではなく、射るように鋭い。

「……新宿さん」

「ん? ……お、おい!?」

六本木は、新宿の首元に顔をうずめた。 桜の花びらが張り付いていた場所に当たりをつけると、唇を押し付け、きつめに吸い上げる。

「こら、そこ見えるって……」

「んむ……」

六本木は小さくかぶりを振って、その抗議を受け流した。

新宿としては、その愛情表現の行為自体は嬉しかった。 だが、制服の胸元を大きくはだけさせている都合上、印をつける場所は考慮して欲しいところであった。 たとえ彼が気にしなくても、彼が所属するチームのリーダーは、そういうことを非常に気にする。 小言を言われるのはいつも、印をつけた六本木ではなく、つけられた新宿なのだ。

そんな新宿の葛藤を完全に無視して、六本木は小さなリップ音とともに唇を離した。

「……こういうこと、僕以外にさせないでください。貴方は、僕のものなんですから」

六本木は一方的に告げた。 だが、少しは機嫌が直ったのか、その声色は若干の甘えを含んでいた。

六本木は体を引くと、突然のことに呆然としている新宿を置いて、軽快な足取りで坂を降りていく。 そして少し離れたところで、楽しそうにくるりと振り返った。

「ほら。早くお花見しないと、ライトアップ時間終わっちゃいますよ」

バックステップを踏みながら、六本木はさらに距離を開ける。 子供のように無邪気にはしゃいでいるその姿が、ゆっくりと遠くなっていく。

その光景は、ついさっき見たものと同じだった。

強烈な不安感が新宿の胸をよぎり、彼は思わず地面を蹴って駆け出していた。 六本木に向けて、思い切り腕を伸ばす。

「六本木、待て……っ!」

その腕は、逆に捉えられた。

「つーかまーえたっ」

「……え?」

六本木はにこやかに笑って、差し出された新宿の腕を掴んだ。 そのまま引き寄せて、自分の腕を絡ませる。

そして辺りを一度ぐるりと見渡してから、新宿の顔へと視線を移した。

いまひとつ事態が飲み込めずにいる新宿に向けて、そして周囲の『それ』に向けて、六本木は実に楽しそうに、かつ艶然と宣言した。

「桜なんかに貴方は渡しませんよ。その前に、僕が攫います」

彼らの周囲を強い風が吹き抜け、それに合わせて桜の枝がざわざわと音を立てて揺れた。 それはまるで、六本木の『ライバル宣言』に対抗しているかのようだった。

(おいおい……)

新宿は天を仰いだ。 ビルによって切り取られた四角い夜空は、月明かりにぼんやりと照らされている。 その視界を、ひらひらと桜の花びらが横切った。

さらに腕を強く絡ませてくる六本木の額にそっと口付けると、新宿は小さくつぶやいた。

「……ほんと、そっくりだよ……」

END