Twisted Pair Game

太陽が地平線に沈んでから、どれくらいの時間が経っただろうか。 空は漆黒に染まり、遮るものの無い星の光が、彩を添えている。 だけど、その光が地上に届く事は無い。 空の光を覆い隠すほどの光の洪水が、この街を照らしているから。

さすがというべきか、とても綺麗な光だ。 ずっと眺めていたいと思う一方で、ひどく落ち着かない気分になる。 窓の外に広がるそんな景色は、どこかこの部屋の主に似ていると思った。 ……いや、それは逆。 街があの人に似ているんじゃない。 あの人が、『新宿』だから。

そんなことをぼんやりと考えていたら、コーヒーのいい香りが鼻をくすぐった。 振り返ると、僕が考えていたその人物――新宿さんが、キッチンから出てくるところだった。 片手にマグカップを2つ、もう片方の手にはシュガーポットを持っている。

「んで、今日はどうするんだ?」

新宿さんは、マグカップをテーブルに置きながら尋ねてきた。 僕は即答した。

「花札以外で」

この3ヶ月ほど、僕はほぼ週1回のペースで、新宿さんの部屋を訪れていた。 そこで行われているのは、テーブルゲームを使った、ささやかな『賭け』。 勝負に勝った方が食事を奢ってもらうという、他愛のないものだ。

その食事も、大して値の張るものじゃない。 評判の洋食屋のビーフシチューだの、ホテルのケーキセットだの、単純に自分が食べたいと思っていたものを、ちょっと奢ってもらうという程度。

だから、メインは奢ってもらうことそのものじゃない。 勝負に――相手に勝つこと。

……だった。

テーブルの上に、木製のチェス盤が置かれた。

ことん。

盤上に駒が置かれると、いい音が響く。 収納用の袋から出した駒を手際よく並べながら、新宿さんは苦笑する。

「こないだは悪かったよ。だから、今日はこれな」

先日、僕は花札勝負で惨敗した。 ルールをあまり把握していなかったのも敗因だったけれど、何より、相手が強すぎた。 新宿さんはカードゲーム、特にポーカーがやたら強い。 過去に何度か対戦したけれど、一度も勝てていない。 あの引きの良さと心理戦の強さは、天性の才能だと思う。 逆に、ボードゲームでは僕の方が強く、チェスでは今のところ無敗だ。

「チェスじゃ、勝負は見えてますよ」

僕がそう言うと、新宿さんは肩をすくめた。

「んなもん、やってみなきゃ分からないだろ?」

その仕草は、妙にわざとらしい。 どうやら、僕がルールに疎い種目で勝負してしまったことへのお詫びとして、今回の勝ちをゆずってくれる気らしい。

もともと、この『賭け』を言い出したのは僕だった。 話を持ちかけられた新宿さんは、面白がって、すんなり勝負を引き受けてくれた。 だけど、純粋に勝つことが嬉しかったのは、最初のうちだけだった。 いつの間にか、僕は勝敗にこだわらなくなった。 ゲームに興じること、そして、一緒に食事に行くことが楽しみになっていった。

新宿さんも、最初のうちは負けると悔しそうにしていたけれど、最近はそうでもないようだ。 もしかしたら、同じように思ってくれているのかもしれない。 そう考えると、僕はちょっと嬉しくなる。

勝敗にこだわっていないからこそ、勝ちをゆずられるというのは、面白くない。 僕はひとつ提案してみることにした。

「せっかくだから、お互いの実力が分かっていないものにしません?」

「……って言われても、ルール知ってるのは、あらかたやっちまったと思うぜ」

新宿さんは黒のルークの駒を指先につまんだまま、緩く腕を組んで考え始めた。 つくづく、そういう格好が絵になる人だ。 ちょっと……かっこいいと思う。

「7並べ……は二人でやるものじゃないな。じゃあ、神経衰弱とか?」

「それ、余計に僕が勝ちそうな気がしますけど」

「だよな……」

テーブルゲームの種類は限られている。 この部屋にあるものでできるゲームは、ほとんどやってしまったのだろう。 だったら、それ以外で、何か新宿さんの実力の分からないもの……。 ああ、それなら。

「……キス」

「は?」

新宿さんが、怪訝そうな顔で聞き返す。 その目が、変な聞き間違いをしたようだが、と言っている。 当然、それは聞き間違いじゃない。

「新宿さん、今日こそキスで勝負しません?」

「……だから、男の守備範囲は狭いんだって」

予想していた通りの答えが返ってきた。 でも、僕だって引き下がるつもりはない。 すぐ近くまで歩み寄ると、新宿さんの顔を下から覗き込んで、挑発する。

「またそんなこと言って。 ……本当は下手なんじゃないんですか?」

――どちらの方がキスが巧いか、確かめてみませんか?

今までに何度かそう提案してきたけれど、そのたびに断られてきた。 その理由は、僕も新宿さんも男だから……では、ない。

新宿さんが断る理由は、『悪くはないけど、好みじゃない』。

――俺の唇は、好みじゃない奴にキスしてやるほど、安くないよ。

新宿さんはそう言って、僕の申し出を軽くかわしてきた。 別に、誰に『好みじゃない』と言われても、何とも思わない。 そんなもの、人それぞれだから。 でも、それを新宿さんに言われると、何故か無性に嫌な気分になる。

僕は、新宿さんの手を取った。 顔の前まで引き寄せ、駒を挟んでいる指先に、そっと唇をつける。 ちらりと新宿さんの表情をうかがうと、少し困ったように眉を寄せていた。

「だったら、新宿さんの好みのタイプを教えてくださいよ。 近づけるように、ちょっと頑張ってみますから」

だけど、新宿さんは僕を無視するかのように、テーブルへと向き直った。 手が、ひらりと払われる。

ことん。

新宿さんが持っていたルークの駒が、チェス盤の上に置かれた。

「余計なことは、しなくていい」

ことん。

そのまま新宿さんは、無言で駒を置いていく。 怒らせてしまったのだろうか。 けれどその表情からは、特に怒っている様子は感じられない。

「よし」

その言葉にうながされるように盤面を見ると、必要な駒は全て綺麗に並べられていた。

……しょうがない、今日はおとなしくチェスだ。

僕がそうあきらめたとき、新宿さんが白のナイトの駒をつまみ上げた。 白は、新宿さんがいつも使っている色だ。

「……チェック」

とん。

新宿さんは、まるで僕の胸を盤に見立てたかのように、駒の底を押し当てた。 その意味が、僕には分からない。 チェックといえば、チェスにおいて、次の手で相手のキングを取れる位置に駒を動かすことだけど……。

「……新宿さん?」

「ほら、お前の番。動かないの?」

新宿さんは僕を正面から見据えながら、そんなことを言う。 ますます意味が分からない。 ただ、一つだけ分かっていることがある。

今、僕は何故か、とてもドキドキしているということだ。

何してるんですか。

僕はそう言おうとして、口を開きかけた。 でも、それより早く、新宿さんが宣言した。

「チェックメイト」

チェックメイト――相手のキングがどう動いても、次の手で確実に取れる状態を作ること。

じゃあ、さっきの『チェック』って、その意味で良かったのかな。 そんなことが頭をよぎった。 でも、それは一瞬で消えていった。

新宿さんは僕の胸に当てていた駒を降ろすと、間合いを詰めた。 空いている左手を僕の頬に伸ばし、包み込むように自分の方に引き寄せる。 新宿さんの顔が近づいて――柔らかいものが唇に触れた。

完全に、不意打ちだった。

「ん……んんっ!?」

口の中に、新宿さんの舌が入ってきた。 舌を絡め取られて、その肉感に、しびれるような感覚が背筋を走る。 僕は思わず、身を引こうとした。 けれど、それは失敗に終わった。

いつの間にか頭の後ろに回されていた、新宿さんの手。 軽く押さえられているだけなのに、僕の自由はあっけなく奪われてしまった。

「……ん、ふぅ……っ」

僕の抵抗をあざ笑うかのように、容赦のないキスが繰り返される。 ろくに、息継ぎさえさせてくれない。

僕は後ろに踏み出そうとして、何かにつまづいた。 そのまま倒れこんだような気もする。 でも、正直、よく覚えていない。 新宿さんが唇を離してくれるまで、何も――新宿さんのこと以外、考えられなかったから。

「……誰が、キスが下手だって?」

ようやく僕を解放してくれた新宿さんは、からかうように尋ねた。 3回目まではなんとか数えていられたけれど……結局、何回キスされたのかは分からない。 頭の芯がしびれて、水の中をふわふわと漂っているような気分だ。

「……ごめん、なさい……」

たとえ挑発でも、下手なんじゃないかなんて言ったのは、悪かったと思う。 ちょっと……悔しいけれど。 新宿さんは、僕を見下ろしたまま、くすくす笑い出した。

僕は、そのことに違和感を感じた。 どうして、僕は新宿さんを見上げているのだろう。

ぼんやりしていた頭が、次第にクリアになっていく。 僕はやっと、自分が置かれている状況を把握した。

……これ、ソファだ。

僕はテーブルの正面に置かれているラブソファに、倒れこむような形で上半身を横たえていた。 その上に、新宿さんが覆いかぶさっているのだ。 状況は分かったけれど、これって……。

「なぁ、六本木。もうテーブル挟んで遊ぶのは飽きたよ」

新宿さんが、僕の耳元でささやく。 だいぶ元に戻ったとはいえ、まだキスされていた余韻は完全に抜けていない。 新宿さんの言葉は、そんな僕に追い討ちをかけるかのようだった。

「……遊ぶなら、ベッドの上がいいな」

……新宿さんの『スイッチ』が入っている。 さっきまでは普通だったのに、いきなりどうしたんだろう。 それはともかくとして……キスは誘ったけれど、さすがに、そこまでするつもりはない。 それに新宿さんも、僕に対してそんな気はなかったはずだ。

僕は、精一杯の冷ややかな視線を向けた。

「……僕は、守備範囲外だったんじゃないんですか」

新宿さんは、ちょっと苦笑した。

「前は、な」

「え?」

「最近のお前は、やたら可愛いから……余裕で守備範囲内」

そう言いながら、新宿さんは、また深くキスしてくる。

単純に跳ねのけてしまうのが、一番簡単で、僕にとって最善の行動だった。 いくら新宿さんが乗り気だとしても、嫌だと言ったら、やめてくれるはずだ。

けれど僕は、もうほとんど、どうでもよくなっていた。 新宿さんとキスするのは、嫌じゃない。 キス以上のことも……新宿さんなら、たぶん、悪いようにはされないだろう。 遊びと割り切ってくれるなら、もうそれで構わない。 そう思ってしまうほど、本当に、どうでもよくなっていた。

ただ、ひとつだけ、僕自身の名誉のために言っておきたいことがある。 僕は力の抜けた腕で、必死に新宿さんの肩を押し返した。

「ん……?」

キスの途中で、新宿さんはちょっとだけ顔を上げた。 薄く開いた口から覗く舌には、ぬらりとした唾液が糸を引いている。 ちょっと気だるそうな表情と相まって、すごく……扇情的だ。

「……何?」

僕が抵抗したから、話を聞いてくれるらしい。 やっぱり、もし僕が嫌だと言ったら、やめてくれるのだろう。 だけど……それはもう、選択肢から外した。

「……新宿さん。勘違い、しないでほしいんですけど」

「ん?」

「僕は……好みじゃない人と遊んであげるほど、安くありませんよ」

以前新宿さんに言われた言葉を、僕はそのまま返した。 その言葉に、新宿さんが息を呑んだ。 余裕たっぷりだったその顔が、少しだけ曇る。

不意打ちされたんだから、これくらいの報復は、させてもらってもいいと思う。 後は、新宿さんがうっかり逆上してしまう前に……種明かしをしないと。

こういうことをする相手は、誰でもいいわけじゃない。 新宿さんだったから、構わないと思った。 それは知っておいて欲しかったけれど……そのまま言うのは、嫌だった。

僕は両手を伸ばして、新宿さんの頬をそっと包み込んだ。 新宿さんと目が合う。 切れ長の、綺麗な藤色の瞳。 やっぱり……ちょっと、かっこいいと思う。

僕は少し笑って、尋ねた。

「もうちょっと背が高い方が好みなんですけど……どうにかなりません?」

僕が言いたかったことは、伝わったらしい。

一瞬おいて、新宿さんの嬉しそうな声が降ってきた。

「……なるか、バカ」

そして新宿さんは、ゆっくりと僕の唇を塞いだ。

薄暗い部屋の中で、僕は目を覚ました。 カーテンの向こう側は、うっすらと明るくなり始めているようだった。

「ん、起きた?」

僕が自分の状況を全て把握する前に、突然、すぐ耳元で声がした。 首を巡らせると、僕の側らに寄り添うように寝そべっている人物が目に入る。

……新宿さん。

「あ、あの……」

返答に窮する僕に、新宿さんはにっこりと笑いかけた。

「おはよ」

「お、おはよう、ございます……っ」

言いながら、僕は慌てて顔を背けた。 昨夜あったことが頭の中を駆け巡って……顔から火が出そうなくらい、恥ずかしい。

最終的に要求を受け入れたのは、他ならぬ僕自身。 夜で気が大きくなっていたせいもあるけれど……結局、決断したのは僕だ。 他の誰でもない、僕の責任。

救いだったのは、新宿さんがとても優しくて……とても、よくしてくれたこと。 だけど、元々仕掛けてきたのは新宿さんなので、そこはちょっと恨めしい。

そんなことを考えていたら、肩のあたりに、新宿さんの体重がかかってきた。 同時に、肌と肌がこすれる、くすぐったい感覚が僕を襲った。

「もしかして、照れてる? ……今さら?」

新宿さんが、肩口に頬ずりしてくる。

「ちょ、ちょっと……」

どうしたらいいんだろう。 振り払うのは申し訳ないし、かといって、このまま続けられても困る。 何か、やめてもらえるようなきっかけ――話題でもあれば……。

「あ、あの、新宿さん!」

「ん?」

「新宿さんは……たい焼き、どうやって食べます?」

新宿さんの動きが、ぴたりと止まった。

「ほ、ほら、頭から食べる派の人と、尻尾から食べる派の人がいるじゃないですか。 あれって、結構その人らしさが出るっていうか……その、えっと……」

全部を言い終わる前に、僕は激しく後悔した。 ……何を言っているんだ、僕は。 案の定、新宿さんはくすくす笑い出した。

「……なに、お前、たい焼き食べたいの?」

「ち、違います……」

「たしか、麻布十番に有名な店があったな。食べに行くか?」

その声は、まだ笑いを含んでいる。

「でもその前に、っと」

新宿さんが体をずらした。 僕の上に、覆いかぶさるような体勢になる。

「お前の『モード』も戻ったみたいだし……まずは第3ラウンド、行こうか?」

「え……?」

「デートと順番が逆になっちまうけど、まぁいいだろ」

そう言いながら、新宿さんは顔を近づけてくる。

唇が重ねられた。

「ん……っ」

また容赦なく攻めたてられるのではないかと、僕は身を堅くした。 でも、予想に反して、それはすぐに離される。

「なあ、史。 ……今お前が考えてること、当ててみようか」

新宿さんが、僕に笑いかけてくる。 とても嬉しそうで、そして……とても色っぽい。

「まず、ドキドキしてるだろ。 それから……ちゃんと深くキスして欲しいって思ってる」

とくん。

音が――僕の心臓が跳ねる音がした。

「お、思ってません……」

僕は短く答えて、新宿さんから視線を逸らした。 その僕の頬を、新宿さんの指が楽しげにつついてくる。

「いいや、思ってるね。 その証拠に、言い当てられて照れてる」

「か、仮に僕がそう思っていたとして……っ」

その言葉をうまくかわせるような答えなんて、まったく浮かばない。 僕は、思いついたことをそのまま口にした。

「じゃあ、新宿さんは……今、何を考えているんですか?」

言ってしまってから、僕はまた後悔する。 そんなことを聞いて、どうするんだ。

……言わなくていいことばかり言って……まったく、今日の僕はどうかしている。

「んー、言葉にするのが難しいんだけど……」

新宿さんは、ひと呼吸おいて告げた。

「目の前にいる奴のことが、好きで好きで……愛おしくてたまらない……ってコトかな」

……え?

僕の頭の中は、一瞬で真っ白になりかけた。 その片隅を、昨日新宿さんに言われた宣言がよぎる。

『チェックメイト』――つまり、『俺の勝ち』。

「史。 今のお前も……そうだったりするんじゃないの?」

「……僕、は……」

口を開きかけた僕を、新宿さんが制止した。

「ストップ。 ……いい、後は体に訊くから」

「え……わ、ひゃぁあっ!?」

僕は情けない悲鳴を上げた。 新宿さんの手が、僕の胸から腹にかけて、ゆっくりと撫でながら降りていく。 そして、降りきった先には……。

「あ、新宿さん……そ、そんな……やぁ……っ!」

「……凛太郎さん、って呼べって言っただろ?」

頭の中が、真っ白を通り越して、真っ青――新宿さんの色に染まっていきそうだった。

「や……凛太郎さ……ん……っ」

どんどん紅潮していく顔を見られたくなくて、僕は顔の前に手をかざした。 その手を絡め取って、新宿さんが微笑む。

「……『遊び』は終わりだ、史。 本気で……愛してやる」

チェスで惨敗したのは、初めてだ。

でも僕は、その結果が……何故だかとても嬉しかった。

END