Chocolate Exception

うららかな昼下がり。 大江戸線の『駅』たちは、ミラクル☆トレインの中で思い思いに過ごしていた。 そして、それは唐突に告げられた。

「新宿さん、チョコレート買いに行きませんか?」

「……チョコレート?」

いきなりの発言にとまどう新宿に、六本木は笑顔で補足した。

2月14日、バレンタインデー。

始まった理由は製菓会社の策謀だとしても、彼にとってそんなことは関係ない。 各社が社運をかけて売り出す、趣向を凝らしたチョコレート。 それをまとめて入手できるこの時期は、甘党にとっては天国である。 1月中旬から2月いっぱいは、彼の主食はチョコレートになっているという。

「僕のところはあらかた買ってきちゃったので、新宿さんのところを案内して欲しいんです」

「断る」

六本木の依頼に対し、新宿は即答した。 そんなにすぐに断られるとは思っていなかったらしく、六本木はうろたえた。

「え……どうしてですか?」

新宿は大きくため息をついて答えた。

「チョコなんて、男ふたりで連れ立って買いに行くものじゃないだろ」

「そうなんですか?」

六本木は小首をかしげる。 そして、近くにいた彼の後輩に視線を向けた。

「じゃあ、汐留くん。君のところを案内してもらえる?」

「うん、いいよ!」

話を振られた汐留は、快くそれを了解した。

ふたりは汐留駅周辺の地図を広げ、楽しそうに計画を立て始めた。

「実は僕も気になってたんだよねー、辻利の抹茶生チョコレート!」

「辻利って、あの京都の?」

「そうそう。東京1号店は、僕のところにあるんだよ」

汐留はえっへん、と胸を張り、六本木はそれに素直に感心する。 新宿は、子犬が2匹でじゃれているようなその光景を、横目で見ていた。 そして、腕を頭の後ろで組みながらつぶやいた。

「……それはそれで、面白くないよな」

「どういう心境の変化ですか?」

六本木は、目の前にそびえるアール・デコ様式の重厚な建物を見上げて、尋ねた。 隣に立つ新宿は、別に、と答える。

伊勢丹、新宿本店。 二人はいつもの制服から私服に着替えて、買い物にやって来たのだった。 新宿が案内をする気になったのは、ちょっとした独占欲からであったが、それを口には出さない。 代わりに、雑学をひとつ提示した。

「ここ、新宿本店は全店の売り上げの6割を占めてる、稼ぎ頭なんだぜ」

「へえ……何だか、さすがですね」

六本木は新宿の方を向いて、微笑んだ。

「……だろ?」

その仕草が妙に可愛らしく思えて、新宿は思わずその肩を抱き、頬を寄せた。 彼の過度なスキンシップは、もはや条件反射である。

だが、場所が悪かった。 平日の昼さがりとはいえ、通行量はそれなりにある。 そして、彼らの長身と端正な顔立ちは、嫌でも人目を引く。

「ちょっと、新宿さん……っ!」

六本木は、新宿の体を強く押し返した。 目で、周りを見てください、と訴える。

「あ……」

若い女性のグループ、ランチ帰りの主婦とおぼしき女性たち、 それにスーツ姿の男性が数人、その場で固まったまま、こちらを見ていた。

「もう……今、僕たち見えてるんですからっ!」

六本木は小声で怒ると、足早に店内へと入っていった。

だが、そんな彼の機嫌は、売り場に入った時点で完全に直ってしまった。

「おい、まだ買うのか?」

新宿がげんなりした顔で尋ねた。 彼の両手には、紙袋がふたつずつ握られている。

「……これじゃ、案内というより荷物持ちじゃないか」

新宿は不服そうにつぶやいた。 その声が聞こえていないのか、六本木は楽しそうに振り返った。

「まだまだ。全部のお店、紹介してもらいますからね」

新宿はため息をつく。 今の六本木は、チョコレートしか見えていない。

「これとこれ……どっちがいいですか?」

「……何で俺に聞くんだ」

「え? 一緒に食べましょうよ」

そんな美麗男子ふたりの甘いやりとりに、百戦錬磨の百貨店スタッフですら一瞬顔をこわばらせた。 だが、それすらも気づいていないだろう。

――さっき怒っていたのは何だったんだよ。

天を仰ぐ新宿の横で、六本木は真剣な表情でショーケースを見つめていた。

六本木が甘党なのはよく知っていたが、ここまでだとは思っていなかった。

購入した荷物を置くために六本木の部屋に寄った新宿は、言葉を失った。 パソコンデスク脇の低いラックの上に、チョコレートの箱のタワーがいくつも形成されている。 いくつあるのかは、あまり数えたくない。

六本木は新宿から紙袋を受け取ると、中身をそのタワーへと積み上げ始めた。 美しい包装紙に包まれた箱がそのまま、いくつも重ねられていく。 不要になった紙袋を楽しそうに折りたたんでいる六本木を見て、新宿は思わず尋ねた。

「……六本木」

「はい?」

「チョコと俺と、どっちが好き?」

六本木は手を止め、不思議そうな顔で聞き返した。

「……それ、比較する対象、間違ってません?」

新宿は、リビングの中央にあるソファに腰をおろした。 モダンなストライプ模様の布が張られた、二人掛けのものだ。 その前に置かれたガラステーブルにも、開封済みのチョコレートの箱が鎮座している。

「いわゆる『私と仕事とどっちが大事?』の亜種だよ。で、どうなんだよ」

「えーと……」

六本木は綺麗に折りたたまれた紙袋を小脇に抱え直して、考えこんだ。 顎に手を添え、熟考の姿勢である。 そんなに考えることかよ、という新宿の非難がましい視線は届いていない。

やがて、六本木はぽつりと答えた。

「やっぱり、比較できません。……質が違うから」

「……」

その言葉は、大真面目に検討した結果であった。 性質の異なるものは、そもそも同じ天秤に乗せることはできない。 また、たとえ乗せたとしても、その比較結果は意味を持たない。 恋人と食べ物を同じ天秤で計ることは、彼にはできなかったのだ。

そう答えるであろうことは、新宿にも想像がついていた。 それでも、そこは自分の名前を答えて欲しい。 質問がどれだけ非論理的であっても、そしてその答えに何の意味も無くても、関係無い。 先ほどからの六本木の態度と、このチョコレートに埋もれた部屋の状況は、 新宿をしてそう思わしめるほどだった。

新宿は、ふてくされたようにそっぽを向いた。 その姿を見て、六本木はこらえきれず笑い出す。 そして、子供を諭す母親のような口調で告げた。

「いつも、僕のことまだまだ子供だって言ってるわりに、新宿さんだって子供じゃないですか」

「チョコレートに嫉妬するなんて」

新宿は不機嫌に眉を寄せる。

「……悪いか」

六本木は、静かに首を横に振った。 抱えていた紙袋をラックの棚に差し込むと、新宿の方に歩み寄った。

「今日は無理やりつき合わせちゃって、ごめんなさい」

「まったくだ」

それでもまだ、新宿は視線を合わせようとしない。 表情も、相変わらず渋いままだ。

「でも、僕、嫉妬深い人はあんまり好きじゃないんです」

六本木は、彼の目の前のテーブルに置かれていた、チョコレートの箱を手に取った。 外箱をスライドさせて、中から一口サイズのチョコレートを取り出す。 それをそのまま、新宿の鼻先へ持って行く。

「だから、食べて忘れちゃってください」

突きつけられた高級チョコレートの甘い香りが、鼻腔をくすぐる。 新宿は、それと六本木の顔とを、交互に見やった。 そして、最終的にチョコレートを無視した。

新宿は、自分の方に伸ばされている六本木の右腕を下から掴むと、強く引き寄せた。

「わ!?」

座っている新宿に合わせて、少し前かがみになっていたのが災いした。 六本木はバランスを崩し、前方へ倒れこんだ。 それを新宿が受け止める。 そしてすっぽりと抱え込むと、その耳元へ甘く囁く。

「食べるって……もちろん、こっちも『まとめて』だよな?」

「え?」

六本木は目を見開いた。

「……忘れさせてくれるんだろ?」

「あ、あの、そういう……っ」

――そういう意味じゃありません!

そう言いたげに六本木は体をよじったが、うまく動けない。 彼の右手はチョコレートを持ったまま、顔の横で捻りあげられている。 それは大した力で握られているわけではないが、そもそも彼はこういう場面において、新宿に対して強い態度に出られないのだ。

六本木が必死にもがいている中、捻られている右手が動かされた。 もともと六本木が差し出していた位置、新宿の顔の前へと。 新宿は、指先につままれているチョコレートを、器用に自分の口で取り上げた。 口いっぱいに広がる上品な甘さとほろ苦さに、目を細める。

「……うまい」

そして満足げにつぶやくと、ようやく六本木の体を離した。

開放された六本木は、新宿に背を向けて、肩で大きく呼吸をしていた。 一方の新宿は平然とした態度のまま、壁にかかってる時計に目をやった。

「……次の悩める子猫ちゃんは、だいたい今から1時間後に乗ってくるんだったか」

いきなりの「仕事」の質問。 ほとんど真っ白になっていた六本木の頭の中に理性が戻ってくるまで、一瞬の間が空いた。 彼はそれを悟られないように、呼吸を整えて、つとめて冷静に答えた。

「え、ええ、その予定です。ただ、30分くらい前後する可能性があるそうですが」

「……じゃ、残念だが『残り』は後だ。そろそろ戻っておかないと、都庁がうるさいからな」

新宿はソファから腰を上げた。 そのまま六本木を振り返らず、リビングのドアの方へと歩いていく。

六本木はその場に立ちすくんだまま、自身の右手をじっと見つめていた。 先ほど新宿の手が触れていた箇所が、まるで熱を持っているかのように疼く。 強い力で拘束されなくても、彼が新宿に強く抵抗できない理由。

「……貴方は、卑怯だ」

その相手は、ドアのところで立ち止まって、彼を待っているらしい。 気配と視線を背中で感じながら、六本木はそっと右手を口元へ持っていった。

指先には、彼の体温で溶けたチョコレートが、膜のように付着していた。 それをほぼ無意識に、ゆっくりと舐め取る。 同時に、先ほど至近距離で目にした新宿の口元が思い出されて、心臓が跳ね上がる。

――『残り』は後だ。

その言葉を心のどこかが、ほんの少しだけ残念に感じた。 六本木は慌てて首を振って、その考えを追い出す。

この無秩序で非論理的な感情が、あと30分で静まるだろうか。 六本木はぼんやりと、とりあえず顔を洗ってこよう、と思った。 今は、それくらいしか解決策が考えつかない。

「好き」は「好き」でも、その質が違う。 違いすぎる。

六本木は新宿に聞こえないように、そっとつぶやいた。

「……チョコレートなんかとじゃ、比較になりませんよ」

END