Ciphered New Year

「今年も、よろしくね」

そんな声が聞こえた気がした。

もうすっかり年末の風物詩となった、大晦日の終夜運転。 俺たちはそれぞれ自分の駅で、乗客たちの安全を見守ることになっていた。

迷っている乗客にさりげなく道案内をしたり、混雑している駅へ人員整理の応援に行ったり。 何もすることがない時間が大半だが、だからといって、ここにいなくてもいいわけじゃない。

普段とは違うダイヤに、はしゃぐ人々。 何が起こっても不思議はない。 だが、「何か」を起こすわけにはいかない。 せっかくの年末年始、駅の利用者には楽しい思い出を作ってもらいたいからな。

そういうわけで、俺はひとりでホーム端の柱に寄りかかっていた。

天井から下がっている電光掲示板は数分前に年が変わったことを伝えていたが、こんな状況では、新年を迎えたという実感も感慨もない。 年越しの瞬間を恋人と一緒に祝えたならまだ少しは違っただろうが、あいにく、お互いにこの『お勤め』から逃れることはできなかった。

どちらかだけでも暇だったら、少しくらい抜け出しても問題はないのだろう。 しかし俺も六本木も、そんな気楽な利用者数ではない。 こういうときだけは、普段は誇らしい「利用者の多さ」というやつが恨めしく感じる。

せっかくの、新しい一年の始まりの日。 だが今日はそれを一緒に祝うことはおろか、まともに会うこともできないかもしれない。 そんな少しのあきらめを抱きつつ、目の前の空間に向かってつぶやく。

「……今年も、よろしくな」

その言葉は、誰にも届くことなく消えていく。

俺は今、乗客たちに姿を見せないようにしている。 だから相手が俺と同じ『駅』でない限り、俺の姿は見えないし、俺の声も聞こえない。 俺の存在に全く気づくことなく、乗客たちは俺の目の前を通り過ぎていく。 それは俺たちにとっては当たり前のことで、もうすっかり慣れている。

俺の目の前を、楽しそうに腕を組んだカップルが横切っていった。 彼らの一年が幸せなものになることを願いながら、俺は小さくため息をつく。 そのため息も、誰にも気づかれることなく消えていく。

――はず、だった。

「……新宿さんっ」

すっかり耳に馴染んだ声が、俺の名前を呼んだ。 驚いて声のした方を振り返ると、この場にいるはずのない人物が立っていた。 それは、俺が今この場にいて欲しいと願った人物。

「よかった、すぐに見つかった」

自分の見ているものがすぐには信じられなくて、俺は何度か目をしばたたかせた。 だが俺のそばへと足早に駆け寄ってきたのは、確かに六本木だった。

「六本木、お前、なんで……」

「ちょっとだけ、抜け出してきちゃった」

六本木は少し肩をすくめて、目を細めた。

「すぐに戻るよ。 だから、みんなには内緒……ね?」

少し上目遣いで声をひそめて話す様子はまるで、いたずらを見逃してもらおうとしている子供のようだ。

「いや、内緒とかそういうことじゃ……」

いつもは、こういうことをして怒られるのは俺の担当だ。 その俺が真面目にしているのに、元々真面目な六本木がルールを破ってくるなんて思いもしなかった。

表情や態度を見る限り、今は『夜』の六本木になっているようだ。 夜になると、ふとしたきっかけで軟派で強引な性格に変わってしまうのは、いつものこと。 だが、性格の基本的な部分――自分の仕事に対して真面目な部分は変わっていないはずだ。 それなのに、今、六本木は俺の目の前に立っている。

なかば呆然としている俺をよそに、六本木は俺に寄り添い、首に腕を回してきた。 六本木の体重と熱とが一気に流れ込んで、空白になりつつあった俺の心を満たしていく。 それはとても嬉しいことだったが、やはりどうにも六本木の行動が不可解で、素直に喜べない。 当の六本木は、満足そうに俺の肩口に顔をうずめている。

「六本木、どうして……」

「……ふふ。 あけまして、おめでとう」

六本木は少しだけ顔をあげて、俺の頬へ軽くキスを落とした。 相変わらず、俺の質問には答えようとしない。 その表情はポーカーフェイスと呼ぶにはずいぶんと艶かしく、そして挑発的だ。

これでは、わざわざ抜け出してきた理由を教えてもらうのは難しそうだ。 だが、理由はどうあれ、俺が今一番会いたかった相手がここにいるということは事実だ。

「……ああ、おめでとう」

頬に残る優しい感触が消える前に、俺はその体を抱きしめ直そうとした。 だが、六本木は俺の腕をするりと抜けてしまった。

「……え?」

ちょうどホームに、六本木方面への電車のアナウンスが響いた。 それに全くかき消されることのない張りのある声が、無情な言葉を紡いでいく。

「すぐに戻る、って言ったでしょ? この電車に乗って戻るね」

そう言って六本木は、線路の方を視線で指し示す。

確かにすぐに戻るとは言っていたが、六本木は俺に挨拶をした以外、まだ何もしていない。 まさか、年始の挨拶をしに来ただけだとでも言うのだろうか。

かき抱く対象を失った腕を若干持て余しながら、俺は三度目の質問をする。

「ちょっと待て六本木、お前、本当に何しに……」

「……それじゃ」

六本木は俺の言葉を遮るかのように、踵を返した。

「待て……っ」

俺は反射的に、その腕を掴んだ。 ここで六本木をこのまま帰してしまってはいけないと、俺の経験が告げていた。

六本木はわざわざ持ち場を離れてここまで来て、何もしないままに帰ろうとしている。 その行動に隠された真意が全く見えず、俺はただ一方的に振り回されている。 そういうことは、夜の間の俺たちにはよくあることだった。

『夜』の六本木は、自分の欲求を表に出すことを厭わない。 ただし、欲求のみで動くのではなく、そこに色々と演出を差し挟んでくる。 無条件に甘えてきたり、冷たく突き放した態度をとったり、つかず離れずの距離を保ちながら俺を誘惑してきたり。 俺の対応が六本木の期待に沿ったものだったなら、二人でとびきり甘い時間を過ごせる。 だが、そうでなかった場合には、機嫌を直してもらうのに骨が折れる。 正直、『夜』の行動パターンはまだ掴みきれていない。

「……なぁに?」

六本木は肩越しにこちらを振り返った。 その表情はどこか楽しげで、まるで、俺に引きとめられたことが嬉しいかのようにも見える。 それは俺の予想を裏付けていた。 今夜の六本木はどうやら、何か俺に「してもらいたいこと」があるようだ。

「もう少し……次の電車が来るまで、話していかないか」

「分かった」

俺の提案に、六本木は素直に従った。 自分の駅を抜け出してきている六本木を引き止めることは、本来なら褒められる行為ではない。 だが次の電車が来るまで――あと15分くらいの延長は、認めてもらおう。

六本木が乗る予定だった電車を見送って、俺は再度ホームの柱に背を預けた。 六本木も俺の隣に立ち、同じ柱にもたれかかる。 お互いの距離は肩が触れ合うくらいに近いが、円形の柱を背にしているせいで多少角度がついてしまう。 会話をする分には支障はないが、多少表情をうかがいづらい。 六本木がこちらに視線を向けているのを確認して、俺は会話を切り出した。

「……ところで、だ」

俺に与えられた時間は、次の電車が来るまでの十数分。 それまでに、六本木の意図を明らかにしないといけない。 経験上、『夜』の六本木へのアプローチは「慎重に」というのが鉄則だが、時間がそれを許してくれない。 俺はひとまず、単刀直入に切り込んでみることにした。

「お前……本当は何をしにきたんだ?」

先ほどから何度も尋ねていることだが、はぐらかされるばかりで明確な答えがもらえていない。 だからどうせ今回もそうだろうと思っていたが、六本木から返ってきたのは、予想外の言葉だった。

「言っちゃっていいの?」

「……ああ」

やや拍子抜けしたと同時に、別の疑念が沸いてきた。 ここに来た目的そのものは、自分から話しても問題がないような、大して重要ではないことなのだろうか。 そうだとすると、それ以外の情報を引き出さないといけない。 俺は少し身構えつつ、六本木の次の言葉を待った。

六本木は俺から視線を外し、どこか遠くを見るような目をした。

「……新宿さんが、さみしがってるかなって思ったんだ。 ほら、前に言ってたでしょ?」

「さみ……しい……?」

その言葉を口にした途端、思い出が脳裏に蘇った。

たしかその時、俺と六本木は今と同じようにふたりでホーム端の壁にもたれて、他愛ない会話をしていた。 目の前を行き交う大勢の乗客たちの姿を眺めているうちに、その言葉は俺の口をついて出た。

(……こうやってると、たまに無性にさみしくなるんだよな)

(どうして?)

(俺はここにいるのに、誰にも気づかれない……当たり前のことだが、なんとなく、な)

自分でもおかしいとは思っていたが、そう感じてしまうのだから仕方がない。 だが六本木は、その俺の感情に共感してくれた。 同じように利用客の多い駅同士、抱く感覚も似ているのかもしれない。

(でも、誰にも気づかれてないわけじゃないよ)

六本木は俺の方を向いて、少し照れくさそうに笑った。

(……だってほら、僕はいつだって新宿さんのこと、見てるでしょ?)

その言葉は、普通の恋人同士なら単なるノロケにすぎないが、俺にとっては大きな意味を持っていた。 それはいつも俺が、というよりは俺たち『駅』全員が、ミラクル☆トレインの乗客に対して言っていることだ。 たとえ人の目には見えなくても、俺たちはいつでもここに居て見守っている、と。

俺は「乗客から見えない」ということばかり気にしていたが、それは見方を変えれば「『駅』同士ならいつでも見える」ということになる。 その発想の切り替え方は、六本木ならではのものだろうか。

そのことに感心すると同時に、愛しさが胸にこみ上げた。 もやもやとした感傷をたった一言で吹き飛ばしてくれる、聡明さと優しさ。 俺は六本木のそういうところが好きなんだと、改めて実感させられた。

(……ああ、そうだったな)

――そうだった。

たしかに、「さみしい」と言ったことがあった。 そして今の状況は、その時とよく似ている。

「余計なお世話だった?」

もう一度視線をこちらに戻して、六本木は俺に尋ねた。

「いや……」

俺が何気なく口にした言葉を覚えていて、ひとりでホームに立っている俺がさみしい思いをしているんじゃないかと、わざわざ抜け出して会いに来た。 それが、六本木がここに来た理由なのだとしたら。

それは、『夜』の六本木にしてはずいぶんと殊勝な行動だ。 だが、そういう理由なら、一連の不可解な行動に説明がつく。

「六本木……」

「ん?」

六本木の真意について完全な確証が持てない状態で、大きな行動に出るのはある種の賭けだ。 しかし、俺が動かなければ事態は進展しない。 こうしている間にも、次の電車までの時間は近づいているのだ。 そしてなにより、六本木を愛しいと思う気持ちが、俺の行動を急き立てる。

俺は体をずらし、六本木の肩を抱き寄せた。

先ほどは逃げられてしまったが、今度はまったく抵抗されない。 俺の行動を拒絶せず、かといって甘えてくるわけでもなく、ただ、艶然とした微笑みを浮かべている。 どうにも今夜は、簡単に心の底を見せてくれる気はないようだ。

だが、だんだんと腕の中が温もりで満たされていくにつれて、そんな駆け引き自体がどうでもよくなってくる。 単純にこのまま、熱に酔いしれることだけを考えていたくなる。

物事の可能性をあれこれ考えて行動するのは、苦手じゃないが得意というわけでもない。 恋の駆け引きというと聞こえはいいが、今の俺は相手に振り回されて、一方的に消耗しているだけだ。 六本木にとっては得意分野なのだろうが、この状態が長く続くと、おそらく俺の忍耐力が限界を迎える。 そうなるとたぶん、俺はとんでもなく非論理的な行動に出るだろう。 例えば、この場で強引に……とか。

そうなる前に、ケリをつけてしまいたい。 俺の考えが当たっていれば、六本木の「してもらいたいこと」は、今の俺自身がそうしたいと思っていることのはずだ。 それなら、もうあれこれ気を回すのは終わりにして、自分の欲求に従おう。 万が一違っていたら、フォローはその時に考えればいい。

「……ありがとう」

俺は自分の唇を、そっと六本木のそれに近づけた。 六本木は抵抗はおろか、身じろぎひとつしない。 俺は、柔らかい感触が返ってくるのを確信していた。

だが返ってきたのは、唇が触れ合う寸前に紡がれた無常な言葉だった。

「待って」

その一言で、俺は文字通り固まってしまった。

なかば後ずさるように体を離し、ただ六本木の顔を見つめ返す。 今の俺はおそらく、とても情けない顔をしているだろう。 しかしそんな俺を見ても顔色ひとつ変えず、六本木は言葉を続ける。

「新宿さんがさみしがってるんじゃないかって言ったけど、それは二番目の理由なんだ」

「……二番目?」

「そう」

「……なら、一番の理由ってのは?」

俺は投げやり気味に質問をする。

予定では対策を取り直すつもりだったが、もう考えることを放棄したくなってきた。 本当は今すぐに六本木をかき抱いて、その取り澄ました余裕がなくなるまで口づけてやりたい。 何か言おうとしているところを遮ったら確実に機嫌は悪くなるだろうが、それを上回る快楽で上書きしてしまえばいい。 胸の奥から湧き上がってくる、「愛しい」という情動だけに従って動きたい。

俺がそんな風に思い始めるほど焦れているのを知ってか知らずか、六本木はなぜか嬉しそうに目を細め、それから、とびきり甘い声でつぶやいた。

「僕が、さみしかったから」

六本木は俺にもたれかかると、肩に顔をうずめた。

「ひとりでホームに立ってたら、新宿さんの言葉を思い出して……なんだかさみしくなってきちゃって。 だから……会いにきちゃったんだ」

表情は見えないが、吐息混じりの声から感情が伝わってくる。 もしかしたらその声色すら演技なのかもしれないが、それを確かめる術はない。

「ね、新宿さん」

「……なんだ?」

六本木が顔を上げ、至近距離で視線が合った。 俺をまっすぐに見つめてくる瞳は熱っぽく潤み、誘惑しているようにも、懇願しているようにも見える。

「仕事が終わるまでさみしくならないように……おまじない、して……?」

六本木は唇を少しとがらせ、静かに目を閉じた。

一度は俺を制止しておきながら、結局、それが「してもらいたいこと」だったらしい。 つまり、俺の予想は完全に当たっていたわけだ。

もう、行動をためらう理由はない。

「……ああ」

俺は吸い寄せられるように唇を重ねた。

まったく、新年早々、とことん振り回してくれる。

甘えてきたのを抱きしめようとすると逃げ、そしてまた甘えてくる。 逃げようとするなら捕まえればいい。 そして、絶対に逃げられないようにきつく抱きしめていればいい。 だが、どのタイミングで捕まえて抱きしめれば機嫌を損ねないのか、『夜』の間はそこが読み切れない。 六本木の考えていることを予想しようとすればするほど、俺は目の前のこと――六本木のことで頭がいっぱいになる。 そして結果的に、六本木の書いた筋書きどおりに動いてしまう。

普段の六本木が相手なら、ここまでペースを崩されることはない。 だが俺は、そんな『夜』の六本木のことも好きでたまらない。

六本木がこういう、悪く言えば面倒くさい一面を持っていると分かった上で、それでも恋人にしたいと思った。 普段の様子とは真逆なほど官能的に、そして攻撃的なくらい大胆不敵に、俺に甘えてきて欲しいと思った。 俺を翻弄することで六本木が気分よく甘えられるのなら、俺はいくらでもそれに付き合おう。

散々焦らされた分を埋め合わせるための、長いキス。

その間ずっと、六本木は俺に身を任せ、されるがままにしていた。 いつもは六本木の方からも積極的に応じてくるのだが、ときおり鼻に抜けた甘い声を漏らすだけだ。

唇を離すと、力が抜けた様子でぐったりと寄りかってきた。 少し大げさなくらい従順な振る舞いはおそらく、期待通りの対応をした俺への、六本木なりのご褒美なのだろう。

「……新宿さん」

キスで乱れた呼吸を整えながら、六本木は色っぽく微笑んだ。

「こんな僕だけど……今年も、よろしくね」

どうやら六本木は今年も、『夜』の間は俺を振り回す気でいるらしい。 だがそれは、とびきり甘い一年が約束されるということでもある。

どうにも落ち着かない新年の挨拶になったが、俺たちには合っているのかもしれない。

「……ああ、こちらこそ」

俺たちの新しい一年に、幸あれ。

そして、この路線を訪れる人たちの新しい一年に、幸あれ。

END