こねこびより

「新宿さん、何やったんですか?」

月島が俺の隣のシートに腰を下ろして、小声で尋ねてきた。

「なんにもやってねぇよ」

「声が出なくなるほど、ひどいことをしたんじゃないんですか?」

「あのなぁ、俺は大切な相手に対してはとことん紳士だぞ?」

「……本当でしょうか」

半信半疑の月島の視線が、その対象へと注がれる。 その視線の先で、史が少し困ったような顔をしていた。 膝に乗せたノートパソコンの画面を、隣に座った両国の方へといったん向けて、また自分の方に向けて少し操作をして、再び両国の方へと向ける。 その間、ひとこともしゃべらない。

朝起きたら、史が口をきいてくれなくなった。

といっても、別にケンカしたわけじゃない。 史は、ノートパソコンの画面に表示されたテキストファイルを俺に見せてくれた。 そこには、こう書かれていた。

――喉が痛くて、声が出ないんです。

だが、それはどうにも不可解だった。

昨日の夜、俺たちはいつもどおりに眠りについた。 その時点では、史に特段おかしなところはなかった。 喉を痛めてしまうほど、ベッドの中であれこれしていたということもない。 むしろ、昨夜は史が眠そうだったので、キスしかしていないくらいだ。

一瞬、それが原因でふてくされているのかとも思ったが、それならすぐに態度で分かるので、理由はまた別にありそうだ。

もしかしたら、本当に、寝ている間に喉を痛めてしまったのかもしれない。 だが俺のカンは、そうではないと告げている。 史はいつもと同じように振舞っているつもりだろうが、恋人の目はごまかせない。

何か、おかしい。

「おーい、ふみー」

俺が呼びかけると、史はこちらの方を向く。 それから、少しだけ眉を寄せる。 ひとこともしゃべらなくても、言いたいことは分かる。

(車内では名前で呼ばないでくださいって、いつも言ってるでしょう)

それは、いつもと変わらないやりとりだ。

「もうすぐ3時だし、ドーナツでも食いに行こうぜー」

史の顔が、ぱあっと明るくなる。 この実に分かりやすい反応も、いつもと変わらない。

そして……

「にゃん!」

……にゃん?

俺は自分の耳を疑った。 だが、その言葉は、間違いなく史の口から発せられたものだ。 その証拠に、史は耳まで真っ赤にして、うつむいている。

「な、なんて言った?」

両国が尋ねると、史はすごい勢いで首を横に振る。

(……聞かなかったことにして!)

俺はそんな史の心の叫びを無視して、史の方へと歩み寄った。

「……ちょっと来い」

腕を引っ張って隣の車両まで連れて来ても、史は終始無言だ。 いよいよもって、行動が不可解だ。

「とりあえず、座れよ」

俺はノートパソコンを胸に抱えたまま突っ立っている史に、着席をうながす。 おずおずとシートに腰を下ろした史は、観念したように膝の上にパソコンを広げ、何かを入力し始めた。

俺はその画面を覗き込んで、絶句した。

――今朝から、何を言っても猫語になってしまうんです。

「……本当に?」

つい口をついて出た言葉に、史のキーの叩き方が荒くなる。

――こんなこと冗談でやって、何がおもしろいんですか!

「いや、いまいち信じられなくてな……」

俺は史の顔の横に、自分の顔を近づけた。

「ちょっと、ごめん」

史の耳にかかっている髪を軽くかき上げてから、そこへ強めに息を吹きかける。 次の瞬間、史の体がびくんと跳ねた。

「……みゃああうっ!」

……ああ、これは本当だ。

合点する俺の前で、史が耳を押さえて悶絶している。 史は耳が致命的に弱いので、ちょっとイタズラするだけで大変なことになるのだ。

「にゃん、にゃあああっ! みぅ……みゃああ、にゃぁんっ!」

なにごとかを訴えているが、こちらにはまったく伝わらない。 ただ、史の可愛らしい見た目と、そのハイトーンボイスから繰り出される「にゃあ」の破壊力はすさまじい。 史は依然として耳を押さえながら、涙目で俺に詰め寄る。

「にゃああ、にゃああんっ!」

言いたいことは、なんとなく分かる。 たぶん、こう言っている。

(もう、いきなり何するんですかっ!)

だがこの状況において、史が言いたい内容は、わりとどうでもいい。

「……可愛い」

俺は史を抱きしめた。

「にゃ、みゃうう……っ!?」

腕の中でにゃあにゃあ鳴きながらもがく史をあやすように、 俺はその頬や唇に何度も軽いキスを落とす。 観念したのか、次第に史もおとなしくなっていった。

ひとしきりキスをしてから、あまり強い刺激にならないように、そっと耳元で囁く。

「可愛いよ、子猫ちゃん……」

とにかく、これに尽きる。

その後、俺たちは車掌にアドバイスを求めた。 俺としては車掌に頼るのはどうにも癪だったが、 こういうワケの分からない現象が相手では、そうせざるを得ない。

だが、得られたのは、なんの解決にもならない解説だけだった。

「今日は『猫の日』ですからねぇ」

車掌いわく、2月22日――猫の日には、猫にまつわる不思議な現象が起こることがあるらしい。 そんな説明では到底納得できなかったが、俺たち自身も納得のいく説明ができる存在とはいえないので、それ以上は追求しなかった。

ただ、その現象は猫の日限定なので、明日になれば元に戻るらしい。

「にゃあ……」

車掌室から戻る途中で、史が深いため息をついた。 俺の顔を不安げに見ながら、なにごとかをつぶやく。

「みぅ、みゃああ、にゃうー、にゃああ?」

相変わらず、何を言っているのか分からない。 たぶん、明日になったらちゃんと元に戻るかが心配なのだろうが、相変わらず俺の理性を綺麗さっぱり吹き飛ばしてくれそうな声色だ。

「心配か? でも、車掌が大丈夫だって言ってんだから、大丈夫なんだろ」

軽く肩を叩くが、史の表情は晴れない。 いったい、どれだけ深いところまで、最悪の結果を想定しに行っているのやら。

「自分ではどうしようもないことをあれこれ考えてても、しょうがないだろ?」

「にゃうううう……」

まだ何か言いたげな史の口に、俺は人差し指を押し当てた。

「ほらほら。 キミには笑顔が一番似合うよ、俺の子猫ちゃん」

頬にそっとキスをすると、史は照れくさそうに下を向いた。 口の中だけで、何かをもごもごとつぶやく。

「みゅ……にゃあう……」

何を言っているのか、なんとなく分かる。

(僕を『子猫ちゃん』って呼ぶの、やめてもらえません……?)

俺はもう一度、今度は唇にキスをする。

今日が猫の日だっていうなら……今日くらい、そう呼んでもいいだろ?

翌日――2月23日の朝になったら、何事も無かったかのように、史の声は元に戻った。 猫の日のちょっとした騒動は、車掌の言った通り、1日で無事に収束したのだった。

だが、俺が「ちょっと残念だな」と言ったら、史が今度は本当に口をきいてくれなくなった。

やれやれ。

世界で一番可愛い子猫ちゃんのお相手も、楽じゃないな。

END