Limit Heart Analysis

ポケットの中の携帯電話が鳴動して、メールが着信したことを告げた。 開いて確認すると、待ち合わせに遅れるという内容のメールだった。

2月14日、バレンタインデー。

今日、僕は新宿さんにデートに誘われていた。 零二くんのところでスイーツの美味しいお店を見つけたとかで、そこに連れて行ってくれるらしい。 待ち合わせ場所は、ここ大江戸線新宿駅のホーム、エレベータの前。 合流してから、大江戸線に乗って移動する。

ミラクル☆トレインに乗ればすぐに東新宿駅に着くのに、わざわざ待ち合わせて「普通の」大江戸線に乗るというのは、ちょっと無駄なことのように思える。 でも本人曰く、「デートの待ち合わせは様式美」らしい。

新宿さんが来るのを待っている間、僕はホームの縁に引かれた白い線を見つめていた。 線のこちら側は、とりあえず安全。 でもそこを越えてしまったら、身の安全は保証できない。 日常の中にある、そんな境界線だ。

それはなんだか、今の僕の心境に似ている気がした。 僕が待っている相手も、とても「危険」だから。

新宿さんは、とても魅力的な人だ。 付き合うようになって、新宿さんのことを知れば知るほど、僕はさらに彼を好きになっていった。 でも、その感情が危険なのだ。

依存、と言うのだろうか。 ともすると、新宿さんに溺れてしまいそうになる。 新宿さんのことだけしか考えられなくなって、彼が僕を認めてくれさえすれば、他のことなんてどうでもいい――そんな風に思ってしまったこともある。

このまま新宿さんのことを好きになり続けたら、この危険な思考が常態化してしまうかもしれない。 そうなってしまってからでは、手遅れだ。

だから僕も、自分で自分の心に境界線を引いた。 それは、相手との距離。

――これ以上、好きにならない。

うっかりその線を踏み越えてしまわないように、毎日気をつけているつもりだ。 この境界線の内側にいる限り、僕の安全は確保される。

でも困ったことに、相手は勝手にこちら側へとにじり寄ってきて、境界線スレスレに立っている僕の腕を捕まえて、向こう側へと引っ張り込もうとするのだ。

「六本木ー!」

考え込んでいた僕の背中に、聞きなれた声がかけられた。 振り返ると、新宿さんが軽く手を振りながら、こちらに歩いてくるのが見えた。

「悪い悪い。 ちょっと都庁に絡まれた」

「都庁さんに?」

「報告書を5つ溜め込んだくらいでぎゃーぎゃー言うから、適当に書いて出したんだよ。 そうしたら、さらにぎゃーぎゃー言いやがって。 あんなもん、だいたい分かりゃいいじゃねーか。 それを……」

僕のあきれ返った視線に気づいて、新宿さんはそこで口をつぐんだ。 一瞬だけバツの悪そうな顔をしたが、すぐにいつもの笑顔に戻る。

「……ま、嫌なことはとっとと忘れるに限る」

新宿さんと出会ったばかりの頃は、このいいかげんな性格が気に障ることもあった。 でも今では、仕方がないとあきらめてしまっている。 逆に放っておけなくて、ついつい面倒を見たくなってしまうから、むしろ愛おしく思っているのかもしれない。

ほら、やっぱり危険だ。

「ああ、そうだ」

新宿さんは自身のコートのポケットから、小さな箱を取り出した。 手のひらに乗る程度の、リボンのかかった可愛らしい小箱。

「ハッピー・バレンタイン」

新宿さんは僕の手を取ると、自分の手のひらで包み込むようにして、僕にその箱を握らせた。 触れ合った手はとても暖かくて、とても優しい。 とてもキザな仕草だと分かっていても、思わずドキッとしてしまう。

「俺からのチョコ。 これっぽっちじゃ、足りないか?」

「そ、そんなに食いしんぼうじゃありませんっ」

僕は慌てて首を振る。 それを見た新宿さんは、くすくす笑い出した。

「たしかに甘いものは好きだし、チョコレートなら一晩で一箱無くなるけど……でも」

「でも?」

「バレンタインにもらったチョコレートの増量を要求したりはしません……」

新宿さんはさらに相好を崩す。 その笑顔までとても暖かくて、とても優しい。

また、境界線を踏んでしまいそうになる。 僕は慌てて新宿さんから視線を外した。

「あ、あの、チョコ……ありがとうございます」

僕は手を開いた。 そして手のひらの上の小さな贈り物をまじまじと見つめなおして、あることに気がついた。 その箱には、見覚えがある。

「ん。 で、そっちからは無いの?」

新宿さんが僕の顔を覗き込んで尋ねる。 そう言われることは予想済みなので、僕もちゃんと新宿さんへのチョコレートを用意している。

「……これ……」

僕は自分のコートのポケットから、小さな箱を取り出して新宿さんに差し出した。 それは、僕がもう片方の手に持っているものと、同じデザインをしている。

「同じの……みたいです」

いくら行動圏が似ているといっても、星の数ほどもあるバレンタイン用チョコレートの中から、お互いが同じものを選んでしまうことなんてあるのだろうか。 だいたい、僕が買ったのはカタログ販売限定の商品なので、たまたま店頭で同じものを買った、という可能性はない。

……いや、ひとつだけ可能性があった。

今から2週間ほど前、僕は自分の部屋で、とあるチョコレート会社のカタログをめくっていた。 このシーズンに合わせて発売されるたくさんのチョコレートは、眺めているだけでも楽しい。 新宿さんにあげるものを選んで注文した後、そのカタログは部屋のテーブルの上にしばらく置きっぱなしになっていたから、新宿さんはそれを見たのかもしれない。

「……ありゃ、かぶっちゃったか。 お前が好きそうなやつ、選んだんだけどな」

新宿さんが苦笑する。 それは、僕の推察――といっても、大したものではないけれど――を、裏付けている。

それにしても、お互いに同じものを贈りあうなんて、自分で買って食べるのと同じだ。 あまりに意味がない。 同じカタログから注文したにしても、僕が自分の好みで選ばなければ、同じものにはならなかった。

好きな人に贈るチョコレートだから、僕が一番気に入ったものを贈りたかった。 でも、それでこんな結果になってしまったのだから、その考えは間違っていたのかもしれない。

「ごめんなさい……。 同じものなんて、意味ないですね……」

「……ばーか」

渡すのを躊躇していた僕の手から、ひょいと小箱が取り上げられた。 新宿さんはその箱を顔の横に掲げて、それに軽くキスをする。

「これは、お前が俺のために選んでくれたものであって、俺が買ったものじゃない。 だから、全然違うものだぜ。 それに、同じ種類を選ぶなんて、以心伝心……だろ?」

そう言って、僕に向けてウインク。

新宿さんはどこまでもキザで……どこまでも僕を翻弄する。

「納得したら、ほら、行くぞ」

場内に、光が丘方面行きの電車が到着するアナウンスが響いた。 新宿さんが僕の腕を引っ張って、先導する。

そんなに……そんなにも引っ張らないで欲しい。 僕の心に引いた、真っ白な1本の境界線。 いとも簡単に、その線を踏み越えてしまうから。

これ以上、好きになっちゃいけない。 いつ、あの時の衝動がぶり返すか分からない。 また新宿さんのことだけしか考えられなくなってしまって……自分の世界に閉じこもってしまう。

そんなの、許されるわけがない。

ホームに電車が入ってきた。 その甲高い走行音に紛れて、僕は新宿さんに声をかける。

「新宿さん……」

「ん?」

許されることじゃないと分かっている。 それでも、今日だけは許してもらいたい。

聖バレンタインデー。 胸の内に秘めた気持ちを、打ち明ける勇気を授けてくれる日だから。

「また……好きになっちゃったかも」

新宿さんはきょとんとした顔で、僕を見つめ返す。 そして、また優しく微笑む。

「ずいぶん唐突だな。 でも……ありがと」

ひと呼吸おいて、新宿さんは僕が握っているチョコレートの小箱を指差した。

「……やっぱり、それだけじゃ足りなかったな」

「だ、だから、そんなに食い意地張ってませんって……」

僕が反論すると、新宿さんはちょっとだけ意地悪そうな笑顔を浮かべた。

停車した電車のドアが、軽快な音とともに開く。 新宿さんは僕の耳元に顔を寄せた。

「足りない分は、今夜たっぷり……全身で堪能させてやるから」

一瞬、言われた意味が分からなかった。 それを理解した瞬間、顔がかあっと熱くなる。

「な、な……何言って……」

くすくすと笑いながら、新宿さんはドアをくぐろうとする。 もちろん、僕の腕を引いたまま。 それに引っ張られて、僕はホームの端に引かれた白線を越える。

一緒に、僕が自分で引いた境界線も越えていた。

新宿さん以外の全てが、どうでもよくなってしまう――そんな、危険な感情。 そんなの、許されることじゃない。

その晩、僕は思い切って、新宿さんにそのことを打ち明けた。 というか、僕があんまり神妙な顔つきでいたので、新宿さんに問い詰められたのだ。 とても隠し通せなくて、洗いざらい、全部話してしまった。

「……事情は分かった。 で、どんな時にそんな風に思うんだ?」

新宿さんは、とても優しい口調で僕に尋ねてきた。

「新宿さんと……一緒にいる時です」

「今も、か?」

僕は黙って首を横に振った。

「新宿さんと……イイコトしてる時。 他の時は、別にそんな風には……」

僕が全部言い終わる前に、新宿さんは吹き出した。 それから、こらえきれないという感じで笑いはじめた。

「なっ……何がそんなにおかしいんですかっ!」

「だ、だってお前……っ、そんな……く、あはははっ」

新宿さんはひとしきり笑い転げたあとで、真面目に話してくれた。 その状況でそんな風に考えてしまうのは、心配するようなことじゃないということ。 それから……新宿さんも、僕と同じように考えてくれていたということ。

「お前、ほんと真面目なのにズレてるよな」

「そんなこと言っても……本気で悩んでたんですから」

新宿さんが、僕の頬を指で軽くつついた。 僕にとっては真剣な悩みでも、新宿さんから見たら馬鹿げた悩みだったようだ。 そんなことを暴露させられて、ちょっとだけ悔しい。

新宿さんは僕の頭を撫でて、それから胸に抱き寄せた。 僕の髪の毛を優しく梳きながら、囁きかける。

「じゃあ、気を取り直して……チョコの不足分の補填、してもいいかな?」

「……うん」

新宿さんを好きになってしまう感情を、無理やり抑えなくていい。 それが分かって、僕は心から安堵した。 でも、新宿さんが「危険」だという認識は、そのままだ。

どんどん深みにはまっていってしまって、もう抜け出すことも、動くこともできない。 それなのに、まだ好きになってしまう。

本当に、危険な人だ。

「新宿さん」

「何?」

「……好き、です」

僕の告白に応じるように額に落とされたキスは、少しだけくすぐったかった。

END