Flip Flop Night
- 【シチュエーション注意】 夜モードの六本木くんが攻め的に誘惑するシーンがあります。(最終的な攻受は固定です)
- 夜モードに切り替わるタイミングについては、オリジナル設定です。
- 書いた日:2010.01.12
大江戸線、新宿駅の一角。 ホームから伸びるエスカレータから降りた利用客たちは、足早に通路を歩いていく。 家路を急ぐ……というには少し遅すぎる時間だが、人の波が途絶えることはない。 ぼんやりとその波を見送って、六本木がつぶやいた。
「……さすが、新宿さんのところは、この時間でもお客さんが多いですね」
その言葉に、隣に立っている新宿が応える。
「お前のところだって、9万人くらい使ってるんだろ」
「ええ、まあ。 でも、僕も大門さんも、やっぱり新宿さんにはかないませんよ」
「ああ、そういや大門のところも多いな」
他は……と、新宿が空中に視線をやる。
二人は、新宿駅のパブリックアートの壁面に背を預け、行き交う人々を眺めていた。 このパブリックアートはメイン通路のエスカレータの脇に設置されているが、駅の構造上、他社線への乗り換え客たちはエスカレータを降りた後、そのまま直進してしまう。 そのため、彼らの目の前を横切る利用客は稀であった。
かれこれ30分ほどこうしているが、その間に目の前を横切ったのは、わずかに4人だけ。 一日に平均13万人が利用する巨大接続駅の、メイン通路の一角としては、あまりに人通りが少ない。
「これじゃ、あんまり見てもらえませんね」
六本木は、壁面を振り返りながら言った。 金属の光沢と、はめ込まれたガラスの色彩が美しいパブリックアート、『新宿ビッグバン』。
「まあ、な。 立地も悪いが……例え立地がよくても、見てる余裕なんて無いのかもな」
新宿は、少し残念そうに、それの表面を撫でた。 男性としては細く整った指先が、ゆっくりと銀色の壁面をなぞっていく。 多くの『駅』たちがそうであるように、新宿も自らの駅のパブリックアートに誇りと愛着を持っていた。
六本木は、そんな新宿の仕草を見て、笑みを浮かべた。
それに新宿が気付いた。 そして、ことさらに悪戯っぽい口調で尋ねる。
「なんだ、お前も撫でてほしいのか?」
「……え?」
六本木は一瞬ぽかんとし、次に頬を紅潮させてうろたえた。
「べ、別にそんなんじゃありません」
六本木は、滅多なことでは動揺しない。 だが新宿と会話していると彼のペースを崩されるらしく、たまにこのようなことになる。 新宿はそれが面白いらしく、ますます拍車がかかるのだった。
「まあまあ」
ふてくされたように顔をそらしてしまった六本木に向けて、新宿が手を伸ばした。 ぽす、と柔らかい音がして、その手は六本木の頭にかぶせられた。 そして、まるで小さい子供をあやすように、ゆっくりと撫でられる。 六本木は少しうつむき加減のまま、自身の髪が緩やかに乱される感覚に身をゆだねていた。
「……新宿さん」
ややあって、ぽつりと、六本木がつぶやいた。 新宿は手を動かすのをやめ、六本木の次の言葉を待った。
「場所……変えません?」
六本木のうつむいている角度が、さらに深くなった。 そのため確認しづらかったが、その頬は、相変わらず紅潮したままだ。 むしろ、先ほどよりも赤みが強くなっているように見えた。
その態度と断片的な言葉から、新宿は六本木の言わんとしていることを察したらしい。 いくら彼らの姿が利用客に見えないとは言え、落ち着かないのだろう。 うつむいたまま、六本木は視線だけを新宿の方に向ける。 伏せられたその瞳は、心なしか潤んで見えた。
「その……ここじゃ、これ以上は……」
これ以上。 つまり、頭を撫でる『以上』のこと。
「……了解」
新宿には、その可愛らしい誘いに応じない理由など無かった。 六本木の腕を取ると、そのまま自身の方に引き寄せる。
「でも、その前に……」
そう言うと、六本木の肩にもう一方の手を回し、顔を近づける。 その行為に、六本木は一瞬眉をひそめ、抗議の表情になった。 だが、すぐに観念したように短いため息をつき、その目を閉じた。 新宿のやや突飛で強引な行動には、いい加減慣れていた。 そして、少し程度の抗議では、どうにもならないことも分かっていた。
新宿がゆっくりと寄せた唇が、六本木のそれと重なりそうになった時。 六本木は、閉じたまぶたの裏に、白い光が明滅するのを感じた。
「……?」
思わず、目を開けてしまう。 彼の視線の先にあったのは、白い天井。 そして、そこに取り付けられた蛍光灯。 その蛍光灯が一瞬消え、星が瞬くように再度点灯した。
新宿は、腕の中の六本木の様子がおかしいことに気付いたらしい。 あるいは、彼もまた蛍光灯の明滅が気になったのかもしれない。 顔を寄せるのを一旦止め、肩越しに後ろを振り返った。
「あー、蛍光灯切れかけてるか……後で替えてもらわないとな」
そして、それは置いといて、と言いたげに再度顔を近づける。
だが、その試みは空振りに終わった。 六本木が、彼の肩に回された腕を、やんわりと振りほどいたのだ。
「え……?」
新宿は、何が起きたのかを、一瞬理解できなかった。 六本木と視線が合う。 自信にあふれ、他者を圧倒するかのようなたたずまい。 その姿は、先ほどまでうつむき加減で恥じらっていた人物とは思えなかった。
「何するんですか、新宿さん」
六本木がつぶやいた。 いや、言い放った。 その声は低く、普段の彼からは想像もできないような、有無を言わさぬ迫力を持っていた。 新宿は、驚きとあきらめとがないまぜになったような複雑な表情で、六本木を見つめた。
「お前……」
「キスなら、僕からしますよ」
そう言うと、六本木はにっこりと笑った。
新宿は、これ見よがしにため息をついた。 その肩は、がっくりと落とされている。
「ったく、ひどいタイミングでスイッチ入れやがって……」
当の六本木は、そんな新宿の態度を見て、不服そうに頬を膨らませた。
「……新宿さん?」
「なんだよ」
新宿は、半ば投げやりに言葉を返す。
「さっきまでと、露骨に態度が違いませんか?」
その問い掛けに、新宿は答えない。 六本木は、ますます不機嫌そうな表情になった。
六本木は、特異体質とも言えるものを持っていた。 『夜になると、性格が変わる』。 それは、酒を呑むと泣き上戸になる、程度の、可愛げのあるものではなかった。
元々の冷静で控えめな性格から、軟派で強引な性格へ。 昼と夜の明るさをそのまま反映したかのように、彼の性格は180度方向性を変えるのだった。 しかも、そのスイッチはいつ入るか分からない。 陽が落ちたからといって、必ずしも性格が変わるわけではないのだ。
だが、どうやらネオンサインのような、光の明滅が引き金になっていることは分かっていた。 煌々と瞬くネオンの光は、夜の歓楽街の象徴。 それを見ると、反射的にスイッチが入ってしまうらしい。 逆に言えば、それさえ目に入らなければ、平穏無事に過ごせるわけである。
新宿は、心の中で切れかけた蛍光灯を呪った。 その程度の明滅でスイッチが入るなど、予想すらしていなかった。 それも、今、このタイミングで。 不幸なことに、一度オンになったスイッチは、本人の意志ではオフにすることができない。 陽が再び昇るまで、ずっとオンのままなのである。
恥ずかしげに目を閉じた六本木の顔が思い起こされて、新宿は再びため息をついた。 その様子をじっと見ていた六本木は、おもむろに口を開いた。
「……嫌です」
「は?」
一体何が嫌なのか、新宿はすぐに理解できなかった。 元々、六本木の発言にはやや断片的なところがあるが、それにしても唐突すぎる。
「新宿さんは、この状態の僕のこと、好きじゃないんですよね」
六本木は、新宿を真正面から見据えて、尋ねた。 怒っているわけではないが、その口調は、はぐらかすことを許さない。
「……いつもの方が、好きなことは確かだな」
新宿は、相手の出方をうかがうように、曖昧に返した。 嘘は言っていない。
「僕だって、どうにかできるならどうにかしたいですよ。 朝になって、何であんなことしちゃったんだろうって、後悔することも多い。 でも、開業したときから、ずっとこうなんです。 おまけに、行動してる間は自覚も無い。 自分じゃどうにもならない」
その言葉は、滑らかに六本木の口から紡がれていく。 だが、その滑らかさは、まるで絵の具のチューブを巻き上げて中身を搾り出しているような、ある種の不自然さを伴っていた。
六本木が軽く床を蹴った。 先ほど自分から離れた新宿の腕の中に、再度飛び込んだのだ。 首に腕を回し、その肩口に顔をうずめる。 そして、押し殺した声で言った。
「だけど、僕は僕です」
新宿は何も言わなかった。 まだ彼は、六本木の真意を測りかねていた。 下手に口を挟んで、ますます機嫌を損ねてしまうよりは、何もしない方がいい。 そう決めたはいいが、いざ愛しい相手の体重がのしかかってくると、自然と体が動いてしまう。 所在なげに下ろされてた手をもう一度上げ、そっと、六本木の肩を包んでやる。
今度は、振りほどかれない。
しばらくの間、二人はそのまま動かず、互いに何も言わなかった。 最初に口を開いたのは、六本木だった。
「……嫌なんです」
またそれか、と新宿は思った。 いったい何が嫌なのか、先ほどの独白のおかげで薄々気付いてはいたが、まだ確証が無い。 たまりかねた新宿が、何か言おうとした。 だが、それを制するように、六本木が口を開いた。
告げられた『嫌』の対象は、新宿が思っていたものと一致していた。 そして、彼の想像よりも、ずっと殊勝なものだった。
「陽が落ちても、貴方を好きだっていう気持ちは、変わらないんです。 ……冷たくされるのは……嫌です」
それきり、六本木は口を閉ざしてしまった。
沈黙を破ったのは新宿だった。
「……悪かった」
そう言って、抱きとめている体を、もう一度強く抱き締めなおす。 その言葉を待っていたかのように、六本木が少し顔を上げる。
「……本当に、悪かったと思ってます?」
六本木が多少前かがみになっているとはいえ、身長差の無い二人である。 その言葉は、新宿のすぐ耳元で告げられた。
「ああ。……ごめんな」
新宿の言葉も同様に、すぐ近くで聞こえる。 首筋に息がかかって、六本木は、少しくすぐったそうに身じろぎした。
そのままの姿勢で、六本木が上体をひねった。 新宿の顔を、斜め下から覗き込む。 その表情はとても晴れやかで――とても挑発的だった。 六本木は、嬉しそうに弾んだ声で告げた。
「じゃあ、今夜は僕が新宿さんを可愛がる番ということで」
「……はぁ!?」
新宿の口から、すっとんきょうな声が漏れる。 先ほどまでのいじらしい態度はどこへ行ったのか、六本木はにこにこと笑っている。 だが、その目は獲物を狙う猫科の動物のように、鋭い眼光をたたえている。
「お前、落ち込んでたんじゃないのか……」
演技だったのかよ、と新宿はうめいた。
「んー……3割くらいは本気でしたよ?」
7割の演技にしては、妙に実感がこもりすぎていた。 だが、その言葉がどこまで本心なのか、確認するすべは無かった。
新宿が頭を抱えているのを見て、六本木は口端を上げて、蟲惑的な笑顔を作った。 そして、新宿の耳元に、ふう、と息を吹きかけた。
「……!」
不意打ちをまともに喰らい、新宿の片眉がぴくりと跳ね上がる。 六本木の肩に回されている腕が、一瞬震えた。 その反応に、六本木は気をよくしたらしい。
「新宿さん、今の僕は好みじゃないんでしょう? そんな相手を抱いてもつまらないでしょうから……僕から抱いてあげますよ」
いつもより少し低いテノールの声が、若干の挑発とからかいを含んで、新宿の耳に届く。 いつもとは性質の異なる、甘い誘い。 その響きは静かに、だが確実に相手を束縛する。
そのまま、六本木は新宿の首筋に唇を寄せた。 ゆっくりと、愛おしそうに、唇と舌でなぞっていく。 肌で触れられるよりも、ずっと熱い感触。
「……っ」
新宿が唇を噛んだ。 首に押し当てられた熱が、じりじりと全身に伝わっていく。 まるで、そこから低電圧の電流を流されているような心地だった。
「お前……っ」
「ふふ……ここが弱いって言ったの、自分じゃないですか」
六本木は、肌からほとんど口を離さずに答えた。 言葉を紡ぐ唇の不規則な動きと、暖かな吐息が、さらに新宿を煽る。
「……ったく……っ、言わなきゃよかったな……」
たしかに、弱点は新宿自身が六本木に教えたものだった。 以前、何をされてもあまり抵抗しない六本木を気遣って、そっと耳打ちしたことがあった。
――俺に反撃したいと思ったら、ここ。
六本木は、覚えておきます、と照れくさそうに笑っていた。 だが、まさかこんな形で反撃されることになるなどとは、みじんも想像していなかった。
ようやく顔を上げた六本木は、新宿の目を真っ直ぐ見つめて、尋ねた。
「ね、新宿さん。 悪くないと思いますけど?」
その静かな声は、肯定の言葉しか受け付けないと言っている。 新宿は、少し考えてから、何も答えずに目を閉じた。 先ほどから、ずいぶんとペースを崩されていた。 いつもと逆の構図である。 新宿は、その原因をあれこれ思案し、最終的にひとつの結論を出した。
それはおそらく、六本木の瞳。 普段の穏やかで優しそうな大きめの瞳が、すっかり夜行性の獣のような光をたたえている。 その豹変ぶりが彼にとって受け入れ難いものであり、そこに引っかかっている限り、六本木のペースに乗せられてしまうのだと、そう考えたのだ。
新宿が黙って目を閉じたことを、六本木は肯定と受け取った。 だが、目を閉じたままの新宿の口から出たのは、肯定でも否定でも無かった。
「……好みじゃないだろうと聞かれたら、『そうでもない』が答えだな」
六本木は、怪訝そうな表情を浮かべた。 新宿は何となくそれを察したが、構わずに続ける。
「ちょっとベクトルが違うが、それなりに可愛いと思ってるよ」
「可愛い? 今の僕が、ですか?」
六本木が、少し怒ったような口調で聞き返す。 新宿は、ああ、と短く答えてから、目を開けた。 眉を深く寄せた六本木と目が合う。 だが、もう、いつもの彼のペースに戻っていた。
「俺のところに負けないように、って、精一杯背伸びしちゃってさ。 かーわいい」
語尾にハートマークがつきそうな口調で、新宿が告げた。 六本木の表情は、ますます険しくなる。 たしかに負けたくないという気持ちはある。 だが、それを『可愛い』と言われる筋合いは無い。 そんな六本木の無言の抗議を、新宿は余裕の笑みで受け流した。 右手を伸ばし、六本木の左頬を包む。
「強気で、自信家で……でも、俺のことしか考えてないって感じだな。 ……なかなかに、独占欲をくすぐられるよ」
親指をゆっくりと動かして目元をなぞる。 愛おしそうに、何度も。
六本木は新宿の首に回していた腕を降ろしながら、手を払った。 新宿は口調も表情も、動作も穏やかだった。 それが逆に、六本木の自尊心を逆撫でしたらしい。 六本木は、語気を荒げて言い放つ。
「別に、新宿さんのことばかり考えてなんかいませんよ。 勝手に決め付けないでください!」
「ふーん」
新宿は、ことさら興味無さそうに答えた。 六本木の頬は、うっすらと上気していた。 それが苛立ちによるものだけではないことを、新宿は直感的に見抜いていた。
「じゃあ、本当に俺のことしか考えられなくしてやるよ」
新宿は払われた右手を再度伸ばすと、六本木の肩に置いた。 そしてそのまま、突き飛ばすようにその肩を押した。
六本木の後ろは、パブリックアートの壁面だった。 だが、背中に当たるはずの堅い金属の感触は無い。 六本木はバランスを崩し、そのまま仰向けに倒れこんだ。
「……っ!?」
思わず目をつむり、身を硬くする。 だが、彼の体が床に叩きつけられる前に、何か柔らかいものがそれを受け止めた。 ギシ、と何かが軋む音がする。
六本木が恐る恐る目を開けて上体を起こすと、そこは薄暗い空間だった。 一瞬のうちに、どこか違う場所へ連れて来られてしまったらしい。 先ほどまで煌々と明るい駅の通路に立っていたせいで、暗さに慣れるまでに時間を要する。 だが、六本木にはここがどこなのか、大体の予想はついていた。
彼ら『駅』は、こういった多少の奇術めいた能力を持っている。 しかしそれを発動させられる対象は、本人のよく知っている場所やモノに限られるのだ。 連れて来たのが新宿である以上、ここは新宿のよく知っている場所で――
そう考えているうちに、目が暗さに慣れてきた。 あまり地厚でないカーテンを通して入ってきた光が、部屋をほのかに包んでいる。 見覚えのある家具の配置に、やっぱり、と六本木はひとりごちた。
そこは新宿の部屋だった。 駅の近く、夜景が売りの高層マンションの一室を、贅沢に確保しているのだ。 だが、肝心の新宿の姿が見えない。
「……新宿さん?」
呼びかけてみたが、返事も無い。 六本木は、自分が座っている場所を改めて見渡した。 彼の体を受け止めてくれたのは、独り住まいにはそぐわない、随分と大きいベッドだった。 新宿はそのベッドを使っている理由を、手足が充分に伸びたほうが快適に寝られるからだと主張していた。 ただし、一人ではなく二人で使うことが前提条件なのは言うまでもない。
ふと、先ほど新宿に言われた言葉が六本木の脳裏をよぎった。
――俺のことしか考えられなくしてやるよ。
六本木は軽く唇を噛むと、強い口調で、もう一度相手の名前を呼んだ。
「新宿さん、いるんでしょう!?」
気配がした。
それに気付いた時には、六本木の視界は反転していた。
「うわっ!?」
思わず声が漏れる。 まず部屋の天井が目に入り、それが黒い影で遮られた。
「……呼んだ?」
低い声が、頭上から降ってきた。 六本木の胸の上には、その声の主の手が置かれている。 それに押されて、再びベッドの上に仰向けにされたらしい。
「っ! 新宿さ……」
抗議しようとした六本木の声は、途中で勢いを無くした。 下から見上げている相手は、たしかに新宿だ。 だが、いつもと様子が違う。 部屋が薄暗い上に覆いかぶさられているため、その表情を細部まで確認することはできなかった。 しかし、それはあまり重要ではなかった。 表情ではない何かが、根本的に違う。
新宿が膝を進めた。 それに合わせて、ベッドのスプリングが音を立てて軋む。 先ほどよりも身を乗り出した新宿の全身から、威圧感のようなものを感じる。
彼が六本木に触れているのは、胸の上に添えられた片手だけ。 決して強く押さえつけられているわけではないのに、六本木は指一本動かすことができないでいた。
新宿の顔が近付き、暗がりでも表情が読める距離になった。
新宿は、怒っているわけでも呆れているわけでもなく、笑っていた。 楽しくて仕方がない、そんな風に見えた。 だがそれは、他の『駅』たちとふざけあっている時に見せる笑顔ではない。
六本木は、何故か、何もかも見透かされているような気がした。 背筋に嫌な汗が流れ、無意識に呼吸が早くなる。 なのに、目を離すことができない。
「……し、ん……」
六本木の口から、うわごとのような声が漏れる。 新宿は、それを満足そうに一瞥した。
「新宿、歌舞伎町……東洋一の歓楽街だ」
新宿がそう告げる声のトーンは、若干落ち着いてる以外は、いつもと同じだった。 だが、まるで、一切の抵抗は無意味だと言われているかのように感じられた。
新宿は無言で六本木の上に置いていた手をどけると、自分の胸のあたりをまさぐった。 しゅる、と柔らかな衣擦れの音とともに、ゆるく結ばれていたネクタイが解かれる。 その先端が揺れて、六本木の腕に当たった。 恐怖とも高揚ともつかない奇妙な感覚が、六本木を支配していく。 心臓の鼓動が早くなる。
新宿は目を細めた。 六本木の耳元に唇を寄せ、低く、そして甘く囁く。
「なめてると痛い目見るぜ、史ちゃん?」
「……っ!」
六本木は、びくんと身を竦めた。 すぐそばで聞こえた新宿の声が、体の奥まで反響していく。 まるでその声に絡め取られているかのように、身動きできない。 ゆっくりと、新宿の腕が六本木に向かって伸ばされた。
逃げたい。 でも、逃げられない。
新宿の指先が、六本木の前髪に触れた。 六本木は息を呑んだ。 触れられている箇所が、まるで火を近づけられているかのように熱い。 その熱は、手のひらの大きさになると、そのまま上方に動かされた。
六本木の焦点の定まらない目に、新宿の喉元が映り……
「……え……?」
その額に、何か柔らかいものが触れた。 それが新宿の唇であると理解するのと、六本木の体から力が抜けたのは、ほぼ同時だった。
彼を縛り付けていた緊張感が、すうっと溶けていく。 まるで、そんなものは最初からなかったかのように、体が軽くなった。
六本木は、おずおずと口を開いた。 すると先ほどとは違い、ちゃんとした言葉になった。
「……新……宿、さん?」
「ん?」
新宿が、六本木を上から覗き込む。
彼は笑っていた。 だが、先ほどのような威圧感は感じない。 いつもの、包容力のある笑顔。
「どうした?」
「ど、どうした、じゃ……っ」
六本木は言葉を詰まらせた。 強く張られていた緊張の糸がぷっつりと切れ、虚脱感が全身を襲った。 本人の意思に反して、涙腺が緩む。
「おいおい。 泣くなよ」
知らずにこぼれていた涙を、新宿が指ですくう。 だが、その涙はなおも溢れてくる。
「泣いて、なんか、いません……っ」
新宿はやれやれ、と肩をすくめると、泣きじゃくる六本木の目元に口付けた。
「……落ち着いた?」
六本木の焦茶色の髪を指に絡めながら、新宿が尋ねた。 それに対して、六本木は視線をそらしたまま、小さくうなずいた。 ベッドサイドのライトが点けられているので、はっきりと相手の顔が見えてしまう。 恥ずかしさと情けなさで、新宿を直視できない。
「なんで……」
言いかけて、六本木は途中で口をつぐんだ。 本当は、何であんなことをしたのかと問い詰めたかった。 だが、下手に蒸し返して、また同じことをされるのは馬鹿馬鹿しい。 いや、絶対に避けたい。
新宿は、弄んでいた六本木の髪を軽く引っ張った。
「じゃ、おとなしく俺に可愛がられるんだな」
「い……」
六本木は反射的に、嫌です、と言いかけた。 そして言いよどんだ。 すかさず、新宿が悪戯っぽく尋ねる。
「『い』? ……イイ? それとも、イヤ?」
六本木は黙り込んだ。 あの時に感じた、言いようのない束縛感。 いつも優しく撫でてくれる手や、恥ずかしくなるほど愛を囁いてくれる声が、ひどく怖かった。
だが、それと同時に、ある種の熱を感じていたのも事実だった。
逃げたい。 でも、逃げられない。
それなら――このまま、めちゃくちゃにされてしまいたい。
六本木は、その感覚を追い払うように首を振った。 だが、そんな六本木の心境は、新宿にはお見通しだったらしい。
「言わないなら、しょうがないな」
そう言って、新宿は自身の肩から下がっているだけのネクタイに手をかけた。 ネクタイを引き抜くと、六本木の腕を取り、手際よく巻きつける。
「……え?」
その行動があまりに早かったため、六本木はあっけにとられていた。 六本木が我に返った時には、彼の両手は胸の前で戒められていた。
「な、何して……」
「俺を可愛がるなんて言うから、お仕置き」
新宿は喉の奥で笑った。 六本木の背筋を、ぞくりと冷たいものが走る。
手加減された、というのは六本木にも分かっていた。 新宿は、あのまま、放心状態の六本木をどうにでもできたのだ。 途中でやめてくれたのは、たぶん、彼の優しさなのだろう。
大切にしてくれている。 そのことは、とても嬉しかった。
だが今の六本木にとって、抱かれることを認めるかどうかという部分は、別問題だった。 六本木は、精一杯に叫んだ。
「い、嫌です……っ!」
「残念、時間切れだ」
新宿は軽く手を上げて抗議を遮ると、容赦なく言い放った。
「観念するんだな」
六本木の上に、新宿の低い声が降ってきた。 だが、先ほどとは異なり、恐怖は感じなかった。 理由のひとつは、その声に、こらえきれない笑い声が混ざっていたこと。 そしてもうひとつは、間近に見上げた瞳が、とても優しそうだったこと。
新宿は右手の人差し指を立てると、それをやんわりと六本木の唇に押し当てた。 すぐに離し、今度は自分の唇にあてがう。 とても他愛のない、間接キス。
そのまま、新宿は相手の返事を待った。 楽しそうに細められた目が、六本木に「どうする?」と問いかけていた。
六本木は、その最後のチャンスを見送ることにした。
小さくため息をつく。 そして、スイッチが入る前の彼がそうしたように、その目を閉じた。
END